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宮本和知&香田勲男 巨人の“三本柱”を支え続けた“左右両輪”/プロ野球1980年代の名選手

6/11(火) 16:01配信

週刊ベースボールONLINE

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

気迫の投球に躍動感あるフィニッシュ

 藤田元司監督が復帰した1989年の巨人。第1期1年目の81年と同様に、いきなり1年目から優勝、日本一を飾ったシーズンだ。ふたたび先発完投を重視する方針を掲げ、槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄が新たに“先発三本柱”として確立。20勝を挙げた斎藤を筆頭に、桑田が17勝、槙原が12勝と、この3人の活躍はすさまじかったのだが、このVイヤー、ここぞの場面となると、この3人の影が一気に薄くなってしまうのも確かだ。

 打ってはクロマティがプロ野球で初めて打率4割をうかがったからではない。日本シリーズで「ロッテより弱い」と言われたからでもない。シーズンの優勝決定試合となった10月6日の大洋戦(横浜)を完封したのは左腕の宮本和知であり、日本シリーズで近鉄に3連敗した後の第4戦(東京ドーム)を完封したのは右腕の香田勲男だったからだろう。そして日本一を決めた第7戦(藤井寺)は、香田から宮本へのリレーだ。大事な場面を決めたのは、“三本柱”とともにシーズンを通して回転し続けた“左右両輪”だった。

 宮本は84年のロサンゼルス五輪で金メダル獲得に貢献して、ドラフト3位で翌85年に巨人へ。佐世保工高のエースとして3季連続で甲子園に出場した香田は、ドラフト2位で84年に入団。年齢では宮本が2学年の上となるが、プロでは香田が1年だけ先輩となる。香田は84年にイースタンでノーヒットノーランを達成しているが、一軍デビューは同じ85年。リリーバーとして即戦力となった宮本の一方で、香田は1試合の登板に終わり、翌86年に5月1日の中日戦(ナゴヤ)でプロ初勝利を挙げるも、もともと肩関節がゆるく、オフに渡米して手術を受けた。1年のリハビリ期間を経て、本格的に香田が一軍に定着したのが88年。27試合に登板してプロ初完封を含む4勝を挙げている。

 迎えた89年。藤田監督は先発完投だけでなく、中4日のローテーションも打ち出した。とはいえ、“三本柱”だけで中4日のローテーションを回すことは不可能。宮本も香田も谷間の先発やロングリリーフなどで巨人を支え続けた。右腕だけの“三本柱”にあって、左腕の宮本は貴重な存在。100キロから110キロのスローカーブをウイニングショットにする右腕の香田も“三本柱”とは一線を画していた。阪神のフィルダーに看板を直撃する特大本塁打を浴びてから習得し80キロから90キロほどのカーブで、さらに差異は明確化。ただ、左右の違いこそあれ、気迫の投球に躍動感あるフィニッシュは共通していた。

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最終更新:6/11(火) 16:01
週刊ベースボールONLINE

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