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私の“奇跡の一枚” 連載19 豆行司・木村春芳

6/11(火) 12:10配信

ベースボール・マガジン社WEB

 力士はもちろん行司の入門希望者は、現在、中学卒業からと当然のように定められている。しかし、戦前は徒弟制度で養成が行われていた江戸、明治の名残から、10歳にも満たない子ども行司や呼出しが存在した。俗に豆行司、豆呼出しと呼ばれていたが、小学生にして土俵に上がり、力士を呼び上げ、勝負を裁いていたのだ。

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。

その昔、小学生の行司がいた!

 私が戦後すぐに二所ノ関部屋に入門したのも9歳のとき。初土俵は20年11月で、ところも被災し、焼け跡むき出しの旧両国国技館。「負けを見て勝ちに軍配を上げよ」とだけ教わり、「ノコッタ、ノコッタ」とやりながら、組んづ解れつ激闘する力士から逃げ回ったのだった(力士の脇についてこちらがその動きを追っていけるようになるまで、それから何十年も要した)。

 写真は翌年、後ろのきれいな窓枠でも分かるように、米軍によって接収され、内外装とも新しくして「メモリアルホール」と名前も変わった国技館の前で写されたものだ。

 11月の秋場所を前にして、少年行司がそろって、軍配さばきの稽古に余念がない風景である。前列に5人並んだ豆行司の中央にいるのが私で、ちょうど右側の兄弟子(のち源之助=高砂部屋)の軍配の下に顔がある。

 中央奥が先代玉光さん(花籠)、左の横顔が庄二郎という名で親しまれた26代伊之助(春日野)さんである。

 旧両国国技館の使用は、この後二度と許可されることなく、旧国技館での興行はこれで最後になってしまったから、余計思い出深いものがある。

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最終更新:6/11(火) 12:10
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