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長嶋清幸 背番号0のパイオニアの勝負強さの秘訣とは?/プロ野球1980年代の名選手

6/12(水) 16:01配信

週刊ベースボールONLINE

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

背番号66の男が「0」を背負うまで

 1983年はプロ野球の歴史における、ひとつのエポックとなったシーズンだった。背番号が廃止された44年、戦局の悪化によってプロ野球が休止に追い込まれた45年の2年間を除き、プロ野球の幕が開けた36年から脈々と受け継がれてきた背番号の歴史で、支配下登録の選手として初めて背番号0が登場したのだ。現在でこそ日本ハムを除いて一般的なナンバーだが、その当時は、画期的な試みとして新鮮に映った、というよりは、何かの間違いのような違和感を覚えた、という向きも少なくないのではないか。

 88年シーズン途中に阪神のジョーンズが着けた背番号00のように、90年代に入って復活したとはいえ、一時的な珍事として球史の中へ消えてしまう可能性もあっただろう。ただ、背番号0は、じわじわと他のチームへと普及し、定着していった。それは、背番号0のパイオニアが広島の長嶋清幸だったからだろう。

 あまりにも「0」のインパクトが強すぎて完全に上書きされているが、一軍で頭角を現した頃の背番号は「66」。ドラフト外で80年に入団したときに与えられた背番号だ。やはり現在では少なくなっているようだが、当時の一般的な感覚として、数字の小さな背番号に対するあこがれがあったという。

 1年目から一軍出場を果たし、プロ初本塁打。その後は着実に出場機会を増やしていく。82年には79試合に出場。この82年、海の向こうはアメリカで、ナ・リーグの首位打者に輝いたのがエクスポズのアル・オリバーだった。その背番号が「0」。そこで、古葉竹識監督に相談すると、「縁起の悪い数字でもないから」と言われ、翌83年から背番号を変更することに。すると、広島が掲げたスローガンが「スタート・フロム・ゼロ」だったことも味方して、身長170センチとプロ野球選手としては小さな背中に躍動する「0」は、瞬く間に浸透していく。

 いきなり外野の定位置をつかんで初の全試合出場。主に山本浩二、衣笠祥雄に続く六番打者として、満塁の場面で15打点、打率.600をマークするなど、勝負強さを発揮する。のちにヒザを痛めるまではスピードもあり、広い守備範囲も武器。プロ入り時は、

「まったく問題外のレベル」

 と自身の守備を振り返るが、まだ「66」だった時代、大下剛史コーチから「どっちかが倒れるかまでやるぞ!」と言われ、ひたすらノックを受け続けた猛練習の賜物だった。慣れない右翼を守ったときに、捕れないと思った右中間の打球をダイビングキャッチ、これで自信が芽生え、守備に高い意識で取り組むようになったという。

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最終更新:6/12(水) 16:01
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