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06年、小笠原満男と大黒将志。ザッケローニさえも…。獲得自体が監督の構想外、不遇に阻まれた挑戦【セリエA日本人選手の記憶(6)】

6/12(水) 10:30配信

フットボールチャンネル

 日本人選手の欧州クラブへの移籍は通過儀礼とも言える。90年代、そのスタートとなったのがセリエAへの移籍だった。三浦知良や中田英寿など日本を代表する選手たちが数多くプレーしたイタリアの地。しかし、現在セリエAでプレーする日本人選手はゼロ。この機会にこれまでの日本人選手のセリエAでの挑戦を振り返る。第5回はMF小笠原満男とFW大黒将志。(取材・文:神尾光臣【イタリア】)

●すでにチームは完成。スタートから苦境に

 小笠原満男と大黒将志。Jリーグで、また日本代表で確かな実績を築いていた両者は、2006年同時期にセリエAへ挑戦した。しかし両者ともに、メッシーナとトリノでそれぞれ出場機会に恵まれず、イタリアを後にすることとなった。

 出場機会は、練習を通し指揮官の信頼を得ることを通して獲得するものである。ただこの2人は、それ以前のところで不遇をかこっていた。獲得が必ずしも監督の構想に合わなかったことと、フロント自体の混乱。その煽りを受けて実力が発揮できる場が与えられなかったという不遇が、両者には共通していた。

 まずはメッシーナの小笠原。鹿島アントラーズから柳沢敦を獲得した時に築いたパイプを活かし、二人目の日本人として呼んだ。フロントは柳沢がいた時代から小笠原にも注目しており、ずいぶん前から地元メディアでは盛んに噂となっていた。実際2006年の1月に獲得へ動くが、W杯への準備を理由に選手サイドから断りを出されている。

 しかしメッシーナは半年後に再トライ。カルチョポリでユベントスが降格処分を受けたことからAへの再昇格が決まると、再びラブコールをかけた。そして開幕を2週間後に控えた8月24日に、獲得へと至った。

 もっとも開幕を前に控え、チームはすでに出来上がっているところ。そこから小笠原は中盤のポジション争いに参入するわけだが、定位置争いは難しかった。

 当初は4-4-2のシステムで挑んでいたが、中盤のファーストチョイスは潰し屋タイプのカルミネ・コッポラに、展開力があってミドルシュートの強力なニコラス・コルドバ。さらには運動量があって前線への飛び出しの効くダニエレ・デ・ベッツェが、3ボランチでプレーする際のオプションとなっていた。

 そこに来てビザ取得のために帰国もあり、練習を積めずチームへの順応にはハンディとなる。

●小笠原獲得は何のためだったのか?

 そんな中で小笠原は苦闘を続けた。チームメイトと打ち解けるのにも時間は掛かっておらず、選手の中には「ヤナ(柳沢)より明るく社交的だ」という評価もあったほどだ。第7節のエンポリ戦ではフル出場しミドルシュートから初ゴールを決めた。だがジョルダーノ監督は、なんと次節のパレルモ戦でベンチメンバーからも外したのである。

「スタンドから試合を見て学ぶこともあると思う。強く相手に当たって、もっと走ってもらわなければならない」

 指揮官は試合後、理由をそう説明していた。中盤には組み立てよりも、まず走って守備のタスクをこなすことを要求していた。実際エンポリ戦では、中盤の運動量が落ちたところを攻められ同点へと持ち込まれている。

 ただ、メッシーナはその後成績が上がらず、順位を落とすことになる。中盤には守備よりも、攻撃面での質の低下の方が目に付く状態になった。

 サイドを破って漫然とクロスを上げ、前線の巨漢CFクリスティアン・リガノーに当てるサッカーに終始。そしてジョルダーノ監督には、小笠原などを起用してクオリティアップを図るアイディアはなかった。

 結局コルドバの控えという立場に押し込まれ、前半戦での出場機会は6試合にとどまる。第18節のフィオレンティーナ戦ではチームが0-2とリードされた29分に交代を命じられた。

 折り返しの頃には、チームは降格圏の手前まで順位を落とす。すると若いスポーツ・ディレクターのマルコ・バレンティーニは、1月期になってむやみやたらな補強に走って選手層を膨れ上がらせた。その結果、小笠原の出番はますますなくなり、2月にジョルダーノ監督が解任されて以降は試合に招集すらされなくなってしまった。

 結局、小笠原を獲得したのは何のためだったのか。監督というよりも、果たして強化部門が小笠原の起用を本当に構想していたのかどうかが疑わしいような扱いだった。

 なお、冬季に選手層をだぶつかせた上で監督を更迭するなどの混乱の結果、メッシーナは後半戦で最下位まで転落し降格。急激に熱を冷やすファンに向かってリガノーが「ブーイングするためにスタジアムへ足を運んでほしい」と呼びかけるほどの惨状で幕を閉じた。そしてシーズン後、小笠原は鹿島からのレンタル期間終了に伴いイタリアを離れた。

●3-4-3に固執したザッケローニ。不運となった大黒

 次に、トリノの大黒。2006年夏、ウルバーノ・カイロ会長はグルノーブルでプレーしていた彼に2年間の完全移籍契約を用意した。

「フィリッポ・インザーギのスピードとヴィンチェンツォ・モンテッラのテクニックを併せ持ったストライカー」

 地元メディアは、そんな触れ込みをしていた。

 ただその情報は、ジャンニ・デ・ビアージ監督のもとには入っていなかったという。

「どうだねミステル(監督)、我われはオオグロを獲得したんだぞ」
「誰です、それは?」

 カイロとデ・ビアージ両者の間でそんなやりとりがなされたという情報が、メディアには流されていた。・

 そんな監督の態度が逆鱗に触れたのかどうかは分からないが、カイロ会長は開幕直前にしてなんとデ・ビアージを解任する。後任としてやってきたのは、あのアルベルト・ザッケローニ監督だった。

 日本代表時代は主に4-2-3-1のシステムのもと、トップ下を軸としたつなぐサッカーを展開していたが、当時は3-4-3へのこだわりがあった頃。そしてそれが、大黒にとっては不運となってしまった。

 トップとして使われるのは、セリエAの水に慣れたロベルト・ステッローネか屈強なエルビス・アブルスカート、大黒はその一列下でウイングないしはシャドーのような動きを強いられた。つまり前線に張るのではなく、中盤にも下がりながらサイドのスペースに飛び出していくことを求められたのである。

●本来の位置でのプレーを果たせないまま…

 このシステムであれば、ウイングかトップ下の選手を充当するのがもっとも機能する。実際大黒がポジション争いに参入したその役割には、その手の選手が大勢いた。

 技術のあるベテランのロベルト・ムッシにパスセンスの高いステファーノ・フィオーレ、そして突破力のあるファンタジスタのアレッサンドロ・ロジーナなど、実績を築いていた選手が集う激戦区となっていたのである。

 当然、最前線で点を取ることを役割としてきた大黒には、セリエAへの順応とポジション争いの同時進行は簡単な話ではなかった。2シャドーの一角でプレーしたフィオレンティーナ戦では、フル出場したもののチームは敗れる。再び先発を果たした第10節のメッシーナ戦では、裏に行くスペースを消してきた相手の守備に戸惑い、プレーに溶け込めないどころかハーフタイムで交代を命じられた。

 それ以降、大黒にチャンスは訪れなかった。ザッケローニ監督はシーズン途中で解任され、再びデ・ビアージが就任するも流れは変わらなかった。その状況は2年目でもしかり。かつてサンプドリアで柳沢をサイドハーフに転向させたワルテル・ノベッリーノ監督がやってきたが、もっぱら大黒を4-3-3のウイングとして構想する状態。結局、本来の位置でプレーをさせてもらえないまま2年間の契約を終了した。

(取材・文:神尾光臣【イタリア】)

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最終更新:6/12(水) 10:42
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