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五輪で転倒、落胆救ってくれた 岡崎朋美さんの言葉

6/13(木) 7:47配信

NIKKEI STYLE

スピードスケート団体追い抜き(チームパシュート)は3人で隊列を組み、空気抵抗の大きい先頭を入れ替わりながら滑走するため、アクシデントが起きやすい競技だ。2006年トリノ五輪の3位決定戦で転倒した大津広美(35)は、レース後にかけられた2つの言葉を今も忘れないという。今回は4年後のリベンジを目指し、バンクーバー五輪に向けて戦った大津の揺れ動く心の内に焦点を当てる。前回は(「平昌五輪パシュート『金』の原点 ある女性選手の転倒」)
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メダルに手をかけながらこぼしてしまった団体追い抜きから6日後の2月22日、大津広美(当時富士急)は、1500メートルに出場する。転倒の際に腰と背中を強打したが、不思議と痛みはなかった。実際には、痛みを感じる余裕さえなかったのだろう。短時間で精神的に立ち直るのは難しく、原因不明の腹痛にも見舞われた。
「つらい」と周囲に漏らせば迷惑をかける。21歳が、自分をコントロールするのは難しい。揺れる気持ちはそのまま滑りにも影響を及ぼし、同じリンクで2カ月前の12月にマークした(W杯)2分1秒71から、3秒も遅れる2分4秒77で33位に。夢にまでみた五輪は、長く、苦しい戦いで終わってしまった。そんな中で、13年がたった今も、心に残る「言葉」が2つあった、と振り返る。

■五輪の光と影が見えた

ロシアに対し0秒4ものリードを持っていた地点での転倒に「自分が転倒しなければ……チームメートに申し訳ない」と、自ら責任を口にしたが、それでもオリンピック新種目で4位に入った結果まで否定する気持ちはなかった。試合直後のフラッシュ(速報)インタビューを受けなくてはいけない、と事前に言われていた。気持ちを立て直し3人で選手と報道陣が交わる「ミックスゾーン」に向う途中、こう言われた。
「メダルではなかったので、ここは(インタビューを)しなくても大丈夫です」
3位と4位の差にハッとさせられた。
「レース後にはインタビューを受けるように、事前に通達を受けていました。オリンピックではメディアの注目度の高さを実感しましたが、メダルが取れなかったのでインタビューはなくて構わない、と聞いた時、あぁ、これがオリンピックなんだろうな、と何となく納得する部分もありましたね」
憧れの舞台にも、光と影のように様々な側面が見えたと明かす。
もうひとつは今でも大切にする言葉だ。同じ富士急の先輩で、1994年リレハンメルからトリノで4度目の五輪出場を果たした長野五輪500メートル銅メダリスト、岡崎朋美(47=現在は解説、タレントで活躍)は、うなだれている自分にこう声をかけてくれた。
「良かったねぇ、目立って……」
岡崎はそう言った。
「オリンピックで記憶に残る選手になれて良かったね、と声をかけてくださったんですね。1人の責任じゃない、出場し4位に入ったのもたいした成績……色々な言葉をかけてもらいましたが、先輩は全く違いました。やはりオリンピックでメダルを取れる選手というのは、考え方が違うんだ、さすがだな、と改めて先輩の言葉に感心してしまって……今も思い出します」
大津は懐かしそうに「センパイ」と繰り返し笑った。
岡崎は4度目の五輪出場となったトリノで日本選手団の主将を務める重責を負い、風邪に苦しみながら500メートルで4位に入った。初出場で厳しい結果に直面した後輩に対し、もちろん不用意に何かを言うはずはない。
「確かにメダルは逃しましたが、それもオリンピックならではなんです。ベストは尽くしましたし、五輪のアクシデントを責めるのはおかしな話です。だから、記憶に残る選手になれて良かったね、と言ったと思います。帰国して落ち着いた頃には改めて、終わったことは仕方がない。前を向いて次につなげよう、と伝えています」
岡崎は13年前の出来事を鮮明に思い出し、取材にそう答える。
4年に一度味わう喜び以上に、そこに隠れる魔物の姿を知り尽くしているからかけられた、心に染みる言葉だった。
トリノから転戦したW杯で大津は活躍した。1500メートル、3000メートルとも好成績を収め「パシュートの借りは五輪で」と、次のバンクーバー五輪を目指す強い意欲も湧き始める。五輪シーズンが終わり、北海道・更別村(十勝地方)に五輪報告会も兼ねて帰郷する。地元のスケート少年団に、小学校の児童のうち約半分が所属するほどのスケートの村は、ヒロインを温かく迎え、子どもたちは小さな村から誕生した五輪選手に目を輝かせた。
そこに、トリノ五輪を父親と一緒にパブリックビューイングで観戦していた、スケート少年団の女の子がいた。当時小学校4年生。自分たちの小さな村の、しかも同じ少年団出身者が大舞台で堂々と滑っていた様子に強い憧れを抱いた。報告会で、その女の子と少しだけ言葉を交わしたが、その時、夢をつなぐ小さな「種」がまかれたことに大津が気付くのは、ずっと後になってからだ。
バンクーバーへのトレーニングは始まり、順調に進んでいた。五輪の中間年にあたる08年には全日本距離別選手権3000メートルで優勝。09年の世界選手権で、パシュートのメンバーとして銅メダルを獲得する。
「五輪の借りは五輪で返す」。本人も強くそう願ってきたはずが、順調に見える結果はどこかで重圧になっていたのかもしれない。代表選考を考えるとどうしても守りに入ってしまい、思い切ったチャレンジができなくなる。真面目な性格ゆえ、リフレッシュをしながら競技にメリハリをつけるのは苦手だった。
「精神的な面も含めて、自分の力不足は否めませんでした。バンクーバーが現実的になり始めた2年前頃から、五輪を狙ってレベルをあげなきゃ、転倒を取り返すためにも頑張ろうと気持ちばかり先行していたようで、心と体のバランスがとれなくなりました」

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最終更新:6/13(木) 12:15
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