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若者のビール離れ対策とドライ新戦略、アサヒビール社長語る

6/13(木) 11:00配信

NEWS ポストセブン

 昭和62年(1987年)の「スーパードライ」発売をきっかけに、ビール業界のトップを走り続けるアサヒビール。しかしビール業界全体が伸び悩む昨今は、“王者”も苦戦を強いられている。そんな逆風の中、今年3月に社長に就任した塩澤賢一氏(60)は、令和時代を生き抜く舵取りをどう考えているのか──(聞き手/河野圭祐・ジャーナリスト)。

【写真】スカイツリーにも近いアサヒビール本社

──令和時代がスタートしましたが、平成元年(1989年)のアサヒビールといえば「スーパードライ」の登場から2年、当時はまさに飛ぶ鳥落とす勢いでしたね。

塩澤:1989年は、当社にとって創業100周年の年でした。その記念事業として、秋には墨田区吾妻橋に現在の本社ビルが竣工しました。もともとこの土地は、当社の吾妻橋工場があった場所。当時の社員にとって本当に感慨深かったですね。

 私が入社したのは1981年ですが、その頃のアサヒビールは、“夕日ビール”と揶揄されるほど苦戦が続いており、資金繰りのために吾妻橋工場を泣く泣く閉鎖、売却しました(1985年)。しかし、「スーパードライ」のヒットでその土地を買い戻し、本社ビルを建てるまでに回復した。アサヒビールの歴史にとって忘れられない年だったんです。

 その頃の私は、本社のお膝元である東京支社中央第二支店(現在の吾妻橋支店)に勤務していました。浅草とその周辺の飲食店に商品を納める業務用酒販店の担当でした。そんな縁のある土地だけあって、浅草は東京でもアサヒファンが多く、私もお客様からよく可愛がっていただきました。

──「スーパードライ」を引っさげての営業活動は絶好調だったのでは?

塩澤:売り上げは良かったのですが、営業部門では大きな問題を抱えました。「スーパードライ」が一気に売れたため、供給がまったく追いつかず、慢性的に商品が足りない状況に陥ったのです。

「社員は『スーパードライ』を飲んではならない。1瓶、1缶でも多く市場に回せ」という指令が出たほどです。しかしその程度で解決するはずもなく、多くの飲食店から「『スーパードライ』を扱いたい」と言われてもお応えできないケースが頻発しました。

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最終更新:6/13(木) 11:00
NEWS ポストセブン

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