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【連載 名力士たちの『開眼』】関脇・逆鉾伸重編 屈辱こそは勝負の世界における飛躍の秘策――[その1]

6/14(金) 12:10配信

ベースボール・マガジン社WEB

 息をするのさえはばかられるような重苦しさに身をすくめながら、逆鉾(入門したときの四股名は本名の福薗。4年後の昭和57(1982)年夏場所、逆鉾に改名。ここでは便宜上、逆鉾で統一)は、じっと病室のドアを見つめていた。この薄い仕切りの向こうに、懸命に死の病と闘っている母がいる。

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

“土俵の鬼”若乃花にあこがれた少年時代

 ――今ごろ、オレが顔を見せたら、きっとビックリするだろうな。一体何といって言い訳しようか。

 これがさっきから逆鉾の足を金縛りにしている理由だった。何しろ今朝、実の父で師匠の井筒親方(先代。元関脇鶴ケ嶺)や、兄弟子でもある鶴ノ富士(福薗、鶴嶺山などを経て、昭和62年初場所から鶴ノ富士に。ここでは鶴ノ富士に統一)らの目を盗んで、春場所の初日が目前に迫っている大阪の宿舎をそっと逃げ出してきたばかりなのだから。

 このところ、母の病状が深刻さを増してきているのは、大阪にいても、父の表情などからそれとなく察せられた。それだけに無用の心配をかけるわけにはいかない。

 ただ、ほんのちょっと、顔を見るだけでよかった。その優しい微笑みに会えば、兄弟子たちの冷たい仕打ちや、相撲に対する迷いも消え、また入門したときの燃え尽くすようなやる気が出るかもしれない。逆鉾の胸には、まだ元気で、いつも忙しく立ち働いていたころの、明るく笑っている母の姿が生き生きと息づいていた。

 それは小学6年のときだった。兄のペッペ(鶴ノ富士の愛称)や、末弟のアビ(寺尾の愛称)はどうしたのか、近くにはおらず、母と2人、窓際の日だまりで古いアルバムを引っ張り出して見ていたことがある。

 その中に、父が、小柄だけど、眼光の鋭い力士を高々と吊り出している写真が一枚あった。

「お母さん、この人、だれ?」

 逆鉾がその力士を指さして尋ねると、母は身を寄せるようにして、

「ああ、この人ねえ。これは一番強かった横綱で、若乃花と言うのよ。お父さんは、その横綱に、こんなふうに勝ったこともあったのねえ」

 と言い、にっこりした。このときの母のいい匂いと、一番強い横綱、という言葉が逆鉾の心に強く刻み込まれた。その日を境にして、逆鉾はもうとっくに引退してしまっているこの初代若乃花のとりこになったのである。

 両国には、土地柄、大相撲関係の本を扱っている本屋が多かった。小さいころから凝り性だった逆鉾は、小遣いが入ると、若乃花や、そのライバルの栃錦のことなどが載っている本や雑誌を求めて、うっすらとほこりを被っている古本屋までのぞいて回り、大ファンの若乃花のことなら、生い立ち、エピソード、全成績まで立ちどころにそらんじられるようになった。

 やがて、このファン心理が、自分も若乃花のような力士になりたい、という力士願望に大変化を。逆鉾が中学2年のとき、すでに2歳年上の兄の鶴ノ富士は父の下に入門している。このことも、逆鉾の変心の促進剤になったのは確かだった。

 ところが、この蛙の子ならではの選択に、予期せぬ生涯が横たわっていることが判明した。父も、母も賛成だったが、一足先に力士生活を送っていた鶴ノ富士が、

「こんなつらい思いをするのは、オレ一人でたくさんだ。チャキ(逆鉾の愛称)は高校に行け」

 と入門に猛反対したのである。このため、逆鉾は心ならずも目黒高(現目黒学院)に入学する羽目になり、

「オレも、ようやく幕下に上がることができ、今ならお前の面倒も少しは見られる。そんなに力士になりたいんなら、入ってこい」

 と、兄の入門許可が下りたのは、それから半年後のことだった。

「でも、どうせ入るなら、(若乃花が師匠の)二子山部屋のある杉並区は遠いので、すぐそこの(栃錦がいる)春日野部屋がいい」

 と駄々をこねたときの父のいかにも困ったような顔を、逆鉾は今でもハッキリと覚えている。

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最終更新:6/14(金) 12:10
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