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総勢9人! 歴代外国人監督の通信簿

6/15(土) 11:01配信

週刊ベースボールONLINE

1リーグ時代は杉田屋守(黒鷲)らハワイ生まれの日系選手が兼任監督を務め、2リーグ分立後はやはりハワイ生まれの若林忠志(毎日)、田中義男(阪神)が専任監督となったが、本格的な外国人監督時代の到来は1970年代まで待たなければならなかった。ここでは、1972年から中日の指揮を執った与那嶺要監督から現在のDeNA・ラミレス監督まで9人の指揮官の実績を振り返る。

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打倒巨人の反骨心でV10阻止

与那嶺要監督(中日)
1972~77年
評価A
監督通算成績:通算6年780試合388勝349敗43分 勝率.526

 外国人監督の先陣を切ったのが、先達と同じハワイ出身の日系二世、与那嶺要だ。現役時代は巨人のスタープレーヤーだった与那嶺は、62年に中日で現役を引退。その後は中日、東京のコーチを経て、巨人入団時の恩師・水原茂が監督を務めていた中日に70年からコーチとして復帰すると、水原の退任に伴って72年に監督に昇格した。

 普段は穏やかな笑みを絶やさなかったが、胸の内は誰よりも熱い男だったという「ウォーリー」がナインに説いたのはハッスルプレー。さらに──。

「晩年になって巨人から追い出されたということもあって、巨人に対する反抗心、打倒巨人という意識が強烈で、そういう意味でもピッタリ気が合いましたね」

 与那嶺が監督の時代にエースになった星野仙一がのちに述懐しているように、古巣の巨人、そして自らを追い出す格好になった川上哲治監督には強烈なライバル意識を燃やした。

 この指揮官の執念が、ナインの中にあった「巨人コンプレックス」を払拭。中日は与那嶺が監督となった72年から2年連続で巨人に勝ち越すと、74年には悲願のリーグ優勝を果たし、巨人のV10を阻止した。

純然たる外国人監督第1号

ルーツ監督(広島)
1975~75年途中
評価C
監督通算成績:通算1年15試合6勝8敗1分 勝率.429

 与那嶺が外国人としては初のリーグ優勝監督になった翌年、75年に広島の監督に就任したのがジョー・ルーツである。

 アメリカ本土アイオワ州の生まれで、選手としてメジャー・リーグでプレーし、インディアンスでコーチも務めたという経歴は、当時の日本球界では異色だった。つまり、このルーツが純然たる外国人監督の第1号ということになる。

 74年は広島の打撃コーチを務め、翌75年に監督に昇格したルーツがまず試みたのは、選手たちの意識改革だった。

「とにかく『何を置いても優勝しなきゃダメだ』と。もうこればっかりだったですよ。彼が何か言うときは必ず『優勝』という言葉が入る。おかげで優勝したいと初めて思いましたね。そこまで追い込んでくれました。これは日本人の監督さんじゃできない」

 ルーツによって一塁手から三塁手にコンバートされ、新背番号の3を与えられた衣笠祥雄は、当時をこのように振り返っている。

 だが、そのルーツ政権も長くは続かなかった。まだ開幕から日も浅い4月27日、甲子園での阪神戦で球審に激しく抗議して退場処分を受けると、その際の球団側の対応を不服として、突如として退団。わずか15試合、6勝8敗1分けという成績を残して日本を去ることとなった。

 ルーツによって戦う姿勢を植えつけられた広島ナインは、ヘッドコーチから監督に昇格した古葉竹識の下で、球団創設26年目で初のリーグ優勝。そこにルーツの姿はなかった。ルーツのレガシーはこの年から前指揮官の意向で採用された「赤ヘル」だけではなかった。

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最終更新:6/15(土) 11:51
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