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人生100年時代の働き方――住金副社長からロシア料理店「キエフ」経営への転身を支えたもの

6/15(土) 11:50配信

日経BizGate

住友金属工業の営業で成果を挙げた加藤幹雄さん

 シニア人材の社外への転出と活躍の多くが、在職中に培ったスキルの延長上で、次の仕事につき成功している。若い時なら別だが、高齢になり畑違いの世界に飛び込むのはスキルの観点からは勧めにくい。その中で、加藤幹雄さんは製造業からまったくの異分野の飲食業に入り、今日まで経営を続けてきた。そこで直面した問題をどう克服したのだろうか。そんな疑問を抱きながら、同氏の経営する京都唯一のロシア料理レストラン「キエフ」で話を聞いた。

 加藤幹雄さんは1961年一橋大学経済学部を卒業後、住友金属工業(現日本製鉄)に入社し、鋼管の営業を担当することになった。当時の売り上げの8割は海外で、石油掘削や輸送に使われる製品が主だった。米国が最大の市場だったが、客先は中小に限られ、メジャーと言われる大手は「バイアメリカン」で食い込みは難しかった。

 そんな中、同社はトランス・アラスカ・パイプライン(エクソン、BP等の大手がオーナー)というアラスカを縦断する超大型案件の受注に成功した。口径が48インチの高品質石油パイプはアメリカでは製造出来ず、これが日本の製品の優秀さを示すことになり、以来大手にも食い込むことができるようなった。

 このパイプの受注もあり、加藤さんは1973年ニューヨークに転勤する。日本人は10人しかいないニューヨーク事務所で、営業担当として働いた。子会社の販売会社の経営指導もしながら、責任者として商社と一緒に米国各地の油田地帯に鋼管を拡販した。

 1970年代は日本企業の海外進出の走りの時期で、高品質とCS(顧客満足)志向で市場を取り出した時期である。加藤さんは新規市場の開拓という難易度の高い分野で着実に実績をあげ、地歩を固めていったのだろう。

 「ニューヨークには高層ビルが林立し、地下鉄のネットワークが整備され、2階建てのつり橋が懸っていて、それらは大量の鉄の塊。道路も、車道と歩道の間の段差が鉄でカバーされており、鉄をこのように大量消費する社会にカルチャーショックを受けた」。そのような社会で、鉄の用途開発では遅れており当時は知名度も低い日本企業が食い込んでいくには幾多の困難があったことは想像に難くない。

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最終更新:6/15(土) 11:50
日経BizGate

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