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山本浩二さんに任された「四番」で見た悪夢/新井貴浩コラム

6/17(月) 12:05配信

週刊ベースボールONLINE

 浩二さんが監督をされたのは、2001年から05年の5年間でしたが、いい意味でも悪い意味でも、私にとって本当に濃密な時間を過ごした時期です。

【画像】広島・新井貴浩、感謝の一打

 1年目、私は野村謙二郎さんがケガで出遅れたこともあり、開幕スタメンで使っていただきました。このときは「七番・サード」です。初めて100試合を超え、124試合に出場し、18本塁打でした。そして翌年が全試合140試合に出場し、規定打席にも到達。打率.287、28本塁打、75打点をマークしています。当時、入団してから右肩上がりで成績がよくなっていました。

 ここで私の転機が来ます。

 四番を打っていた金本知憲さんが阪神に移籍し、翌03年から代わりに四番に指名されたのです。そのとき浩二さんに言われたのが、「おい、四番目で行くぞ」でした。当時は、そこまで考えていなかったのですが、「四番打者」の重圧を和らげてくれようとしたのだと思います。あくまで四番目に打つ打者なんだぞ、と。

 そんな浩二さんの気配りにも気づかず、指名されたときは、ひたすらうれしかった。「ヨッシャ、やってやろう!」と思いました。今考えると、慢心がありました。年々年々、少しずつですが、成績が上がってきたこともあり、「俺にはできる! 金本さんの代わりにやってやるぞ!」と思ったのです。

 大きな勘違いでした。

 四番の景色は、今までとまったく違いました。何より、周囲の見方が前年までと180度変わった。入団から今までは六番や七番でしたし、たぶん「こいつは振る力もあるし、当たれば飛んでいく。面白い選手だな」と思ってもらっていたと思います。ホームランを打てばファンからもメディアからも褒められ、三振しようがゲッツーしようがたたかれることなく、「次は打てよ」と言われる程度。怒られまくった1年目は別とし、01、02年あたりは、金本さんをはじめ、先輩たちの陰で、今思えばですが、のびのびと野球をやっていました。

 でも、四番になったら違う。やって当たり前、打って当たり前という見方をされ、凡退すると、ファンから強烈にヤジられ、いろんな人からダメだ、ダメだと言われた。マスコミからも徹底的にたたかれました。打てないときの反動を初めて経験し、ものすごく苦しかったし、本当につらかった時期です。四番になったらチームの勝利を背負わなきゃいけない、自分のバットがチームの結果に直結することが多い。あのときは、その覚悟ができていなかった。結果が出ていたら、また違ったのですが、初ホームランが25試合、104打席目でやっとです。チームも思うように勝てませんでした。

 日々、風当たりが厳しくなっていく中で、「いかん、ヤバイ、こんなはずはない、何とかしなきゃ」と、どんどん焦り、自分を追い込んでいました。一番きつかったのが、市民球場の味方ファンのヤジです。昔の市民球場は、お客さんも少なかったんで、ヤジがよく聞こえる。正直、「そこまで言うか!」と思う荒っぽい言葉もありました。

 ただ、考えてみたら、私も一ファンの時代、市民球場の客席から何も考えず、選手に声をかけていました。「新井少年」なら、当時の私にこう言っていたでしょう。

「新井! なんで打たないんだ。お前はカープの四番だろ」(続く)

PROFILE
あらい・たかひろ●1977年1月30日生まれ。広島県出身。広島工高から駒大を経て99年ドラフト6位で広島入団。4年目の02年に全140試合に出場し、05年は43本塁打で本塁打王のタイトルを獲得。07年オフ、FA権を行使して阪神に移籍した。11年には打点王になるなど活躍するも、14年は出場機会が減少し、オフに自ら申し出る形で自由契約に。15年に8年ぶりに古巣・広島に復帰。16年には四番打者として25年ぶりのリーグ優勝をけん引し、リーグMVPに輝く。17年途中からは代打が多くなったが勝負強さは健在で、球団史上初のリーグ3連覇に貢献した。18年限りで現役を引退。通算成績は2383試合、2203安打、319本塁打、43盗塁、打率.278。

週刊ベースボール

最終更新:6/24(月) 11:25
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