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トルシエが怒って教えたフラット3。 中田浩二はスプーンの動きを反復

6/17(月) 6:17配信

webスポルティーバ

世界2位の快挙から20年......今だから語る「黄金世代」の実態第9回:中田浩二(1)

1999年ワールドユースについて振り返る永井雄一郎



「国際大会の初戦に負けて、これはやれるな、イケるなって、あそこまでポジティブになれたことはなかったですね」

 1999年のFIFAワールドユース(現在のU-20W杯)・ナイジェリア大会の初戦、カメルーンに1-2で逆転負けを喫した試合を振り返って、中田浩二はそう語った。



 中田はその後、00年シドニー五輪、02年W杯日韓大会、04年アジアカップ、06年W杯ドイツ大会を経験している。どの大会も初戦の結果が、その後の戦いに大きく影響した。とりわけドイツW杯では、初戦のオーストラリア戦に逆転負けを喫したことが影響し、1勝もできずにグループリーグで敗退した。

 だが、この時のカメルーン戦では、負けてもなおポジティブでいられた。それはどういう理由からだったのだろう。

「負けたけど、引きずるような負け方じゃなかったんです。戦術的にやられたというよりも、(身体能力の高い)アフリカ人がゴリゴリ来るところで個人がミスしてやられただけ。たしかに普通は初戦に負けるとバタバタしてしまうんですけど、みんな自信を持っていたし、妙な落ち着きがあった。負けたけど、ある程度主導権を握って戦うことができたので、この先も行けるんじゃないかって思えたんです」

 それが確信になり、自信になったのがつづくアメリカ戦だった。グループリーグを突破するために絶対に負けられない試合に3-1で勝ち、チーム全体として戦える手応えを感じたという。

「カメルーンに負けたけど、手応えをつかめそうなところでアメリカに勝ったのはすごく自信になりました」

 さらに次のイングランド戦には2-0で完封勝ちした。最終ラインに入った中田にとっては、これも確かな手応えとなるゲームになった。

中田は帝京高校時代にボランチに転向し、才能を開花させた選手だった。

 だが、フィリップ・トルシエが日本代表監督になってから、中田はボランチではなく、フラット3の戦術において重要なキーを握る最終ラインの一角(左センターバック)に指名された。

「センターバックをやることに抵抗はなかったですね。前年のアジアユースは試合に出られなかったですし、ボランチにはイナ(稲本潤一)、ヤット(遠藤保仁)、酒井(友之)がいた。みんなに負けていると思わなかったけど、ボランチで試合に出るのは大変でした。そのときは試合に出たいという気持ちしかなかったし、試合に出られればどこのポジションでもいいと思っていました」

 ボランチの選手がセンターバックに入るのは、今はそれほど珍しくはない。06年から日本代表を率いたイビチャ・オシム監督が"ポリバレント(多様性)"という言葉を広め、阿部勇樹がセンターバックを務めたり、ザッケローニ監督時代には今野泰幸が代表でセンターバックとしてプレーした。しかし、当時のコンバートは少し異例だった。

 中田は、どういう意識でセンターバックをやろうとしたのか。

「センターバックだけど、僕の意識の中ではボランチの延長線上でした。当時のセンターバックはマンツーマンタイプが多く、がっつりFWをマークして離さない守備が主流だったし、僕はツジ(辻本茂輝)みたいに人に強いタイプではなかった。バランスを見ながらチャレンジとカバーを繰り返すタイプだったんです。ディフェンダーとしての知識も経験もなかったので、左のセンターバックに入っても、やっていることはボランチとそんなに変わらなかったですね」

 とはいえ、センターバックとしての基本的な動きや間の取り方など独特のものを得るためには「学び」が必要だった。リベロの手島和希、そして右センターバックの辻本茂輝と3人で"フラット3"を形成する中で、トルシエからいちばん指導を受け、叱咤されていたのが中田だった。

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最終更新:6/17(月) 6:17
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