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草野球の魚屋さんからプロの大エースに。 土橋正幸が歩んだ下町ドリーム

6/17(月) 17:37配信

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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第1回 土橋正幸・前編

 平成の頃から、どこかセピア色に映っていた「昭和」。まして元号が令和になったいま、昭和は遠い過去になろうとしている。だが、その時代、プロ野球にはとんでもない選手たちがゴロゴロいて、ファンを楽しませてくれた。

カラフルなユニフォームを着た昭和のホームラン王

 過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、個性あふれる「昭和プロ野球人」の真髄に迫るシリーズ。初回は、「魚屋からプロ野球へ」「草野球から球界の大エースに」という昭和ジャパニーズドリームを体現した土橋正幸さんの軌跡を語り継ぎたい。



 土橋正幸(どばし まさゆき)さんに会いに行ったのは2012年4月。前年のオフ、田中将大(楽天/現・ヤンキース)が沢村賞を受賞したことがきっかけだった。

 1955年に東映(現・日本ハム)に入団した土橋さんは、プロ4年目から7年連続で二桁勝利を挙げた間に20勝以上が5回、そのうち1回が30勝。実働12年で通算162勝を記録したエースだった。現役引退後はヤクルト、日本ハム監督を歴任するなど指導者として各チームに貢献した一方、野球評論家・解説者としても活躍。そして、2007年からは沢村賞の選考委員長を務めていた。

 沢村賞は球界OBで構成した選考委員会によって選出される。当時の委員は村田兆治(元・ロッテ)、平松政次(元・大洋)、堀内恒夫(元・巨人)、北別府学(元・広島)と錚々(そうそう)たる名前が並び、選考基準は登板試合数から防御率まで7項目ある。11年の田中はすべての基準をクリアし初受賞となったのだが、選考後の記者会見において土橋さんが田中に要望を出していた。

「打者をバカにするような派手なガッツポーズをしたり、マウンドで吠えたりするのは、来季から控えてほしい」

ピンチで三振を奪ったあとなど、田中はマウンドで拳を握りしめ、雄叫びを上げていた。沢村賞には参考基準として品格も加味されており、要望は土橋さんだけでなく全委員から出たという。往年のエースたちも田中には何も文句のつけようがないはず、と思っていた僕には意外だった。

 田中は当初、要望には「ノーコメント」だったが、のちに「雄叫びとかガッツポーズは自然に出ちゃう。ピンチの場面で、叫ばないとか考えていると打たれてしまいます。来年も自然とやっちゃうと思います」と発言。当時の楽天監督・星野仙一も「パフォーマンスがあってこそ盛り上がる」と擁護した。逆に、土橋さんに同調する意見は目立たなかった。要望はこのまま消えてしまうのか......。

 そう思ったとき、僕は、土橋さんの求める投手像、エース像が知りたくなった。〈軟式野球からプロ入り〉という異色の球歴にも、改めて興味が湧いた。何より代名詞の"江戸っ子投法"、ちぎっては投げ、ちぎっては投げでテンポよく相手打者を抑えるピッチングは、いかにして生まれたのか。

* * *     

 午後1時、東京・港区の赤坂サカスから程近いカフェテリアで土橋さんと待ち合わせた。大きな眼鏡が印象的な風貌、上体の幅広さはテレビ番組で見慣れているが、初めて間近にした全身は想像以上に大柄で迫力がある。半面、チャコールグレーのジャケットを合わせたシャツの高い襟に上品さが漂い、77歳(当時)という年齢を感じさせない。「今日は土橋さんの野球人生を一からうかがいたいと思いまして」と僕が切り出すと、しゃがれて鼻にかかった東京弁がその場に響いた。

「いやねぇ、野球人生といえばね、自分で言うのはおかしいんだけどさ、わたしのようなプロセスで野球選手になって、そこそこの成績を挙げたの、ほかにいないでしょ? 軟式からプロっていうのもあるけど、わたしの場合、魚屋からプロっていうプロセスもあるんですよ」

 東京・浅草は雷門の生まれで、生粋の江戸っ子の土橋さんは家業が鮮魚店だった。戦時中は千葉の幕張に疎開していたが、戦後、東京に戻った中学時代、水泳部に所属するかたわら野球と出会ったという。土橋さんは運ばれてきたカフェオレを一口飲み、隣の椅子の背もたれに右腕をかけて言った。

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最終更新:7/12(金) 18:34
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