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始皇帝はなぜ、中国統一を果たせたのか

6/18(火) 12:07配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

統一を果たせた「3つの要因」

七強国のひとつとはいえ、秦はもともと後進国でした。
穆公(?~前621年)の時代に「西戎の覇者」と呼ばれていた秦は、いわゆる中原の地からは離れた場所に位置し、経済的にも文化的にも、他国に遅れを取っていました。
法律も、隣国である魏の法律(魏律)を引用していましたし、商業においても「布銭」という趙・魏・韓の貨幣を使用していたことから、これらの国の経済的影響下にあったと考えられます。
そうした国情にありながら、始皇帝が中国を統一できた要因は何か。それはおおよそ3点、挙げられます。
その1つ目は、「法家思想に基づく改革」です。
法家思想というのは「信賞必罰」という言葉で表されるように、法を厳格に運用して、人々を統制しようとする考え方です。
始皇帝自身も、法家思想を重視していましたが、秦では孝公(前381~前338)の治世に、宰相の商鞅という人が「商鞅の変法」という改革を進めます。
それは、氏族制社会の解体、君主権力の強化を目的としたものでした。
氏族とは、共通の祖先を持ち、祖先への信仰・祭祀を共有する、宗教的・血縁的な結びつきを持つ集団です。この時代は、氏族制社会の枠組みが強く残っていました。
そうすると、氏族の頂点には、王族のような有力者がいます。そこを法家は、有力者に対しても、普通の民と同じような原理原則で信賞必罰をおこない、みなが君主のために尽くそうとする体制にしようとしたのです。
信賞必罰を徹底的におこない、民であっても、軍功を挙げれば出世できる。一方で、王の弟であっても、功績がなければ地位を剥奪される……。この結果、君主のみが唯一強大な権力を持つ存在となったのです。
なぜ、こうした改革を実現できたのか。それが2つ目の要因で、逆説的ではありますが、「後進国だった」ことにあります。
法家思想は、君主だけに権力を集中し、それ以外の者には全く権力を持たせず、平等であるという考えです。この思想を浸透させるにあたり、一番の障害となるのは君主の一族、王族です。
たとえば楚では、下克上が少なかったため、王族が山ほどいました。そうなると、国力が100あったとしても、王族の多さから力が分散されてしまいます。
ところが、秦は新興国であったために、王族の人数が少なく、また氏族制も楚や斉と比べて弱い。だからこそ、商鞅の変法による改革が進んだのです。
法家思想と後進的な社会状況というものが、うまくマッチした、と言えるでしょう。
3つ目の要因として、「騎馬戦術」が挙げられます。
この時代は、伝統的な戦術として、馬はもっぱら戦車を牽くために用いられていました。これに対して「騎馬戦術」は、直接騎乗することにより、高い機動力を発揮できる。
秦の西方には、馬に乗って戦う異民族がおり、秦はこれら異民族との交戦を通じ、騎馬戦術を取り入れていたのです。
この3つの要因によって、秦は台頭しますが、いずれも始皇帝以前から始まったことでした。そのため、始皇帝が秦王に即位したときには、他の六国を圧倒する国力を有し、それによって、中国統一を果たすのです。時に、紀元前221年のことでした。

渡邉義浩(早稲田大学理事・教授)

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最終更新:6/18(火) 12:07
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