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驚くべき「渋谷」の寿命の長さ(古市憲寿)

6/20(木) 5:55配信

デイリー新潮

「カメラは現在、東京・渋谷の様子を映しています。スクランブル交差点には大勢の若者が集まっています」。テレビから流れる、そんなアナウンサーの声を聞いたことはないだろうか。

 ワールドカップ、ハロウィン、そして新元号発表や改元の瞬間。何かお祭りごとがあると、テレビは渋谷に出向き、そこに集(つど)った「若者」たちの模様を伝える。

 なぜ渋谷なのか。地名から推察できる通り、渋谷は谷底の街である。なぜこんな谷底に人々は好き好んで集まるのか。NHKが近いので局員が横着して渋谷でばかり取材をするから、東京にはスクランブル交差点以外に大勢の集まれる適当な広場がないからなど、理由はいくつか考えられる。

 しかし真に驚くべきは、渋谷の寿命の長さである。

 東京が首都になって以来、次々に「盛り場」は移り変わってきた。上野や浅草の時代があり、戦後には新宿が若者文化(というかアングラ文化)の拠点としてもてはやされた(吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』)。1960年代後半には、全学連のデモが暴徒化したし、西口地下広場ではフォーク集会が連日のように開催された。マスコミはこぞって新宿を「若者」の街として取り上げる。藤圭子「新宿の女」がヒットしたのもこの頃だ。

 しかし1970年代に東京の盛り場は、新宿から渋谷へと移っていく。東急田園都市線や小田急線沿線を中心に「第4山の手」が形成されるのと並行して、パルコや東急ハンズなどが次々にオープンし、渋谷は若者の街へと姿を変えていった。

 渋谷風カジュアルファッションに身を包んだ「渋カジ」、音楽のジャンルから発生した「渋谷系」など、次々に渋谷発の文化が生まれていく(難波功士『族の系譜学』)。プリクラなど様々な流行を生み出した「コギャル」が集まったのも渋谷だったし、元祖IT企業も「渋谷ビットバレー」に集った。

 しかし2000年代になって、文化の中心は六本木や原宿に移ったかに見えた。新興の起業家は「ヒルズ族」と呼ばれ、きゃりーぱみゅぱみゅが背負っていたのも渋谷ではなく原宿だ。

 しかし渋谷は死ななかった。むしろその影響力は強まる一方である。改元の瞬間、何もイベントがなかったにもかかわらず、人々はスクランブル交差点に集まった。テレビもその様子を嬉々として放送していた。渋谷ヒカリエ、渋谷ストリーム、渋谷スクランブルスクエアなど、新商業ビルの開業も相次ぐ。

 不思議なのは、2019年にもなって特定の場所が、(少なくとも何らかの意味では)「日本の中心」であるように見えることだ。ネットがこれだけ普及した「ユビキタス」時代なのだから(懐かしい言葉ですね)、この世界から「中心」なんて消滅してしまってもおかしくなかった。しかし事態は逆で、人々は熱心に「中心」を探し、そこに集っているように見える。

 今回の原稿を書くきっかけは、社会学者の加藤秀俊さんとのおしゃべり。僕たちが話した場所はもちろんセルリアンである。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

「週刊新潮」2019年6月20日号 掲載

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最終更新:6/20(木) 5:55
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