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武士道精神を継承するフランス柔道

6/21(金) 15:02配信

nippon.com

武道団体を統括した大日本武徳会

日本では戦前、柔道界に講道館と大日本武徳会(武徳会)の二大組織が存在した。私は講道館から段位をもらうことに何の疑いを持っていなかったが、フランスでのコーチ時代、フランスでは講道館ではなく武徳会で段位を取った人がいたという史実を知った。しかし現在、日本の柔道界では武徳会について語られることはほとんどない。

かつて武徳会は、皇族が総裁を、各府県の知事が支部長を務める一大組織だった。同会は1895年、初代総裁に小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王、会長に渡辺千冬(ちふゆ)(※5)を迎え、軍人、内務官僚のほか武術の大家を役員に据え、日本武術の振興、教育、顕彰を目的とする財団法人として設立された。現在でいう武道団体を統括する組織である。約10年後には、会員が111万2414人(1906年)と100万人を超える国家的な団体に成長し、その勢力は国内にとどまらず、欧州にも武徳会の支所が存在した。

当時、講道館柔道をはじめ、いくつもの柔術の流派が存在していた。1906年、武徳会会長の大浦兼武子爵から嘉納に対して、流派にこだわらないで行える「形」を作ってほしいという要望があった。これを受けて嘉納が委員長となり、武徳会本部に柔術10流派の師範20名による「大日本武徳会柔術形制定委員会」が結成された。そして1週間をかけて、「大日本武徳会柔術形」が制定された。嘉納がまとめ役となって種々の流派を統合した「形」が初めて生まれたのである。この時に定められた「投業の形」は、現在、講道館の「投の形」として継承されている。

(※5) 明治から昭和期にかけての政治家・実業家。

日本国内に活動の場を失った柔道家たちが渡仏

戦後、連合国軍総司令部(GHQ) の占領下、武徳会が解散させられ、高専柔道(※6)などの学校柔道が禁止になる中で、柔道を復活させるにあたっては講道館が中心的な役割を担った。

武徳会解散の影響は日本だけでなく、世界中に及んだ。特にフランスでは、古流柔術の各派や武徳会を支持する団体、講道館を母体とする組織などが乱立していた。とりわけ武徳会の影響を受けた有段者会(College des Ceintures Noires de France)は意気阻喪してしまったが、組織の再構築のために高い志と技術、卓越した指導力を備えたカリスマ性のある日本人指導者を求めた。

一方、日本国内では、武徳会が解散したことで活動の場を失った柔術家が多数おり、彼らの多くは海外に活路を見いだそうとした。例えば同会の武道専門学校(武専)出身の道上伯(みちがみ・はく)は、その代表的な存在だろう。また武専出身ではないが、明治神宮競技大会柔道競技(中等学校団体戦)で連覇を果たした粟津正蔵もその頃に海を渡った一人だった。彼らは、前述した川石酒造之助の招聘(しょうへい)を受けて渡仏したのである。

道上はフランス政府公認の道場で指導を行う傍ら、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ諸国でも柔道の普及に努め、1964年の東京五輪無差別級金メダリストのアントン・ヘーシング(オランダ)の指導にも当たっている。粟津はフランスナショナルチームを世界レベルにまで引き上げるなどの貢献が認められてレジオン・ドヌール勲章を授与され、「フランス柔道育ての親」と呼ばれた。

(※6) 旧制高等学校、大学予科・旧制専門学校の柔道大会で行われていた寝技中心の柔道。

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最終更新:6/21(金) 15:02
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