ここから本文です

李登輝はなぜ、娘たちに日本語を学ばせなかったのか

6/21(金) 12:31配信

Wedge

 2014年9月、李登輝は関西国際空港に降り立った。2007年から3年連続で訪日したものの、そこから5年間は機会がなかった。というよりは「奥の細道」散策の後半を辿るとか、台湾少年工の里帰り記念式典に出席するなど、計画が進められたこともあったのだが、体調を崩したりして頓挫してしまったのだ。

 このときの訪日では、初めて実現したことがあった。愛娘二人を連れての日本行きである。1945(昭和20)年、台湾は日本の統治下を離れた。李登輝も京都帝国大学での学業半ばで台湾に戻ることを余儀なくされたのである。その後、台湾大学に編入学し、農業経済学者としての道を歩み始めたことで、視察や研究の一環で日本を何度か訪れたことはあった。

 一人息子の李憲文が綴った文章にも、日本へ出張した父親が「最新のグラスファイバーの釣り竿を買ってきてくれる約束になっていた。タラップを降りてきた父の手に細長い包み紙があるのを見て、預け荷物にせず、自らの手で息子へのお土産を持ってきた父の愛情を感じた」と書かれている。

 しかし、家族を連れて日本へ旅行に行く機会は訪れなかった。現在でもそうだが、台湾の現職総統は日本訪問が不可能だ。そのため、総統に就任する前、最後に日本を訪問したのは副総統だった1985年のこと。国交が無いながらも関係が良好だった南米のウルグアイで大統領就任式典に出席した帰途、東京でトランジットしたのだった。

 余談だが、このとき、李登輝は初めて中嶋嶺雄・東京外国語大学教授(当時)と会っている。中嶋が書いた『北京烈烈―文化大革命とは何であったか』などの書籍を読んだ李登輝が、「これほど中国を鋭く観察している学者が日本にいるのか」と感嘆し、面会を申し入れたという。

 自民党議員との晩餐会のあと、ホテルオークラの一室で会った二人は深夜まで話し込み、中嶋は後に日本における李登輝の最も親しい友人のひとりとして「アジアン・オープン・フォーラム」を開催したり、2007年の「奥の細道」散策をお膳立てするなどして李登輝の対日交流を支えた。

1/5ページ

最終更新:6/21(金) 12:31
Wedge

記事提供社からのご案内(外部サイト)

月刊Wedge

株式会社ウェッジ

2019年10月号
9月20日発売

定価540円(税込)

■特集 再考「働き方改革」―先進企業が打つ次の一手
■ホルムズ危機が問う安保法制に残された課題
■GSOMIA破棄が示した韓国・文政権の野望

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事

あわせて読みたい