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山本和範 自由契約から南海で大ブレークした人気者/プロ野球1980年代の名選手

6/24(月) 16:01配信

週刊ベースボールONLINE

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

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バッティングセンターで“浪人生活”

 1980年代には“リストラ”という言葉は現在ほど使われていなかった。あるいは、言われてさえいなかったと思う。企業を守るために功労者を切り捨てる行為は、クビ、あるいは、クビを切る、と物騒に表現されるのが一般的だった。強者にも事情があろうが、弱者にはクビを落とされたくらい深刻な事態だ。まだバブル崩壊を知らない幸せな時代、少なくとも、それほどの事態をカタカナ語で曖昧にする趣味の悪さはなかった。

 プロ野球の場合は“自由契約”だ。なんの事情も知らなければフリーエージェントとか訳してしまいそうな、この奇妙な日本語。どの球団とも自由に契約して構いませんよ、ということでは正しいのだろうが、まぁ、クビのことだ。この山本和範という男は、23年にわたる野球人生で3度、どの球団とも自由に契約して構いませんよ、と言われた。そして、そこから意地を見せて、ファンを沸かせた男だ。

 1度目は82年のオフだった。ドラフト5位で77年に投手として近鉄へ入団、外野手に転向して80年に一軍デビューを果たしてプロ初本塁打を放つも、一軍出場なく終わった82年までの6年間で6安打のみ。リストラの嵐が吹き荒れる前から、プロ野球は甘い世界ではない。知人に紹介された大阪のバッティングセンターに住み込んでバットを振り続ける日々が始まる。約1カ月、声がかかるのを待ち続けた。結果を出せなかった選手が自由に契約できるほど、やはり甘い世界でもないのだ。

 そんな“浪人”を拾ってくれたのが、就任したばかりだった南海の穴吹義雄監督だった。南海1年目となった83年は51試合に出場して30安打。チームに勢いはなかったが、若手には勢いがあった時代だ。翌84年には規定打席にこそ届かなかったが、勝負強さと安定感、秘めたパンチ力で右翼のレギュラーに定着した。7月14日のロッテ戦(川崎)ではプロ野球記録に並ぶゲーム3補殺をマークするなど、強肩を生かした外野守備でも存在感を発揮する。

 続く85年は年始からチームメートの久保寺雄二が急死するというショッキングなニュースがあったが、その悲しみを振り払うかのように初の全試合出場。主砲の門田博光が担う四番の前後、三番や五番が主な持ち場となっていった。迎えた86年には球宴にも初出場。第1戦(後楽園)では2安打1打点でMVP、第2戦(大阪)では第2打席で2ラン本塁打を放って全国区の人気選手となると、シーズンでは外野のゴールデン・グラブに輝いた。

 自己最多の21本塁打を放った88年は南海ラストイヤー。チームはダイエーとなり、故郷の福岡へ移転することになった。結果的には地元出身の人気選手としての凱旋となり、在阪チームの印象を残す他の選手と比べものにならないほどの絶大な人気を獲得する。

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最終更新:6/24(月) 17:08
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