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ブライアント 「シンボウ」の連続からスーパー長距離砲へ/プロ野球1980年代の名選手

6/25(火) 16:01配信

週刊ベースボールONLINE

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

【連続写真】奇跡の4連発!ブライアントの豪快なスイング

ニッポンでの成功の秘訣とは?

 1989年。近鉄のブライアントは不機嫌だった。開幕から打撃不振に苦しみ、それが守備にも悪影響を与えたのか、平凡なミスを繰り返した。6月20日のロッテ戦(川崎)では、近鉄に入団して初めて先発メンバーから外され、翌21日の同カードでは、22試合連続三振という不名誉なパ・リーグ新記録。喜劇俳優のエディ・マーフィに似た風貌で陽気な印象が強いが、神経質な一面もあり、

「マスコミは悪い話だけ聞いてくる。インタビューはノーだ」

 と、このときは取材を拒否している。

 のちに、日本での成功の秘訣を聞かれたときには、こう答えている。

「シンボウ」

 辛抱。日本での打撃の師匠でもある中西太コーチの「辛抱じゃ」という口癖を覚えたものだった。もっとも、中西コーチと出会う前から「シンボウ」の連続だった。だからこそ、その日本語が心に染み入ったのだろう。

 81年6月のドラフトでドジャースから1位で指名されて入団も、マイナーと行ったり来たり。87年オフ、監督に「出番は少ないだろう」と言われ、チャンスを求めて来日。ただ、入団したのはセ・リーグの中日だった。当時は外国人選手の一軍登録枠は2人で、中日では郭源治、ゲーリーが絶好調。居場所は“第3の外国人”、つまりファーム暮らしだった。

「苦労した覚えしかない。朝が早いし、練習も超ハード。日本語が分からないのに通訳もいない。軍隊生活をしているようだった」

 まだ「シンボウ」という日本語は知らなかっただろう。だが、間違いなく「シンボウ」の日々だった。それが報われたのは6月。近鉄のデービスが大麻不法所持で逮捕されて解雇、その穴を埋めるべく、金銭トレードで近鉄へ移籍することになる。中西コーチとのマンツーマンの猛練習を経て、74試合で34本塁打。近鉄も追い風を受けて、V4をうかがう西武を猛追した。

 シーズン最終戦は伝説の“10.19”だ。全日程を終えた西武から王座を奪うためには、ロッテとのダブルヘッダー(川崎)で連勝しなければならなかった。第2戦の8回表にシーズン34号となる勝ち越しソロを放つも、その裏に早くも同点に追いつかれ、そのまま延長戦に突入。同点のまま優勝を逃した。無念のまま迎えたオフを挟み、雪辱を期した翌シーズンにもかかわらず、なかなか調子が上がらなかった。

 そして89年、「シンボウ」の前半戦。復調したのは夏場を過ぎてからだった。近鉄も8月12日の日本ハム戦(東京ドーム)に勝って首位に浮上。その後は西武、オリックスと三つ巴の優勝争いとなっていく。

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最終更新:6/25(火) 16:01
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