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始皇帝の偉業とは? なぜ、秦はたった15年で滅んだのか?

6/27(木) 12:21配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

中国を初めて統一した始皇帝は、その偉業の一方で、暴君のイメージがつきまとっている。しかし、彼の政治は、世界史を大きく変えるとともに、現代中国と日本を考えるうえで重要な存在なのだ。

渡邉義浩 Watanabe Yoshihiro
早稲田大学理事・教授。昭和37年(1962)、東京都生まれ。筑波大学大学院歴史・人類学研究科博士課程修了。文学博士。三国志学会事務局長。専門は中国古代思想史。著書に『春秋戦国』『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国』などがある。『始皇帝 中華統一の思想』が近刊予定。

なぜ、15年で滅びたのか

中国統一後、始皇帝は法家思想に基づく統治をおこなっていきます。

君主以外は誰でも法を適用され、君主の権力だけが強まる体制は、「一君万民」とも言えるものでした。

その一方で、中国全土に「郡県制」を施行します。行政単位である郡には「守」、県には「令」という行政官を派遣するとともに、軍事を司る「尉」を任じ、監察官である「監」にこれらの行政官を監視させました。

これには、権力の集中を防ぐ意図があります。「守」と「尉」がこっそり密談していることが「監」に知られれば、首が飛んでしまうわけです。

それに加え、「統一事業」として、度量衡、貨幣、文字の統一も実施されました。このような「統一事業」は法家の特徴で、きっちりとおこなわれています。規格の統一によって、画一された統治が可能になるからです。

こうして、君主に権力を集中させた秦ですが、紀元前206年、統一から僅か15年にして滅亡してしまいます。始皇帝の崩御から、4年後のことでした。

なぜ、これほどの短命王朝となってしまったのでしょうか。それは、法家思想に基づく統治の限界を露呈したものと言えるでしょう。

法家の考え方には、プラスの面とマイナスの面、両面が存在します。

統一に向かっていく時代には、「信賞必罰」の思想が国力の強化に繋がりましたが、統一を成し遂げ、体制を維持していく時代にはそぐわなかったのです。

どんな時代も社会的な有力者は必ずいるもので、それにもかかわらず、始皇帝以外の全員を平等に扱うのはきわめて難しかった。20世紀の社会主義がうまくいかなかったのと同様です。ここに、法家思想の限界があると言えます。

また、郡県制によって全国を画一的に統治しようとすれば、その土地の有力者が反発したり、そこの習俗に合わない面がでてくるのは必然です。

始皇帝を題材とした漫画『キングダム』に、騰という実在の人物が登場します。彼は南郡を統治する際、現地の役人に「各地域の習俗に応じた統治をしなさい」と指示しました。

おそらく彼は、「全員を平等に扱う」という法律の適用はできないと分かっていたのでしょう。だからこそ、各地の習俗に従えと命じたのです。

このような考えの持ち主で、始皇帝に意見を言える者が多くいれば、秦の治世はもっと長く続いたのではないでしょうか。

結局、郡県制のような支配システムが全土に受け入れられたのは、前漢の武帝(前156~前87年)の時代でした。やはり、このような先進的な制度が浸透するには、時間が必要だったのでしょう。

それというのも、秦は楚の出身者によって滅ぼされているからです。反乱の狼煙を上げた陳勝と呉広、秦滅亡の原動力となった項羽と劉邦……。彼らはみな、楚の出身者です。

先ほども触れたように、楚には多くの王族がいました。総合力では秦よりも強かったにもかかわらず、力が分散されたために、秦に敗れたのです。

しかし秦の末期には、分散していた楚の国力が打倒秦のために結集し、秦の滅亡につながりました。社会を揺り戻そうとする、氏族制の力が強かったということでしょう。

前漢の武帝の時代まで、氏族制が残っていることからも、この制度の根強さがうかがえます。

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最終更新:6/27(木) 12:21
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