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高知の老舗料亭!得月楼で郷土料理「皿鉢」を堪能する

6/27(木) 12:20配信

Wedge

 「土佐の高知のはりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た♪」

 「よさこい節」の歌詞でも知られる高知の名所、はりまや橋。この一帯は、昭和20年(1945)7月の空襲で焼け野原となった。

 それから5年後、市民はばらまかれる餅に殺到したという。かつて西日本一と称えられた料亭「得月楼(とくげつろう)」復活のための上棟式だ。

 「まだ粗末な小屋程度しか建っていない頃。戦後の高知における、最初の本格的建築でした。近くを走っていたちんちん電車が停まり、乗客も降りて餅を拾ったと聞いています」

 と語るのは、5代目店主の松岡英雄さん。同店の再建は高知市民にとって、復興に向けた明るい話題だったのだろう。

 当地に生まれ育った作家の宮尾登美子は『陽暉楼(ようきろう)』で、芸妓の生き様を描いた。映画化もされ池上季実子と浅野温子の競演で話題となった。舞台の料亭は「得月楼」がモデル。陽暉楼とは、同店創業当初の店名である。

 「初代の松岡寅八(とらはち)は幕末に中村(現・四万十市)から高知に出てきて、鮎屋という名の魚屋を興して土佐藩主山内家の御用達になりました。明治に入ってから、当時の高知の中心地だった玉水新地で歌舞伎、演芸、芝居が盛んに行われ、劇場前で弁当の販売を行ったんですね。それで大儲けをして、明治3年(1870)に『陽暉楼』を開店したんです。

 明治11年、西南戦争で西郷軍を鎮圧した谷干城(たてき)将軍が、熊本城から高知に凱旋しました。祝いを兼ねた観月会が、うちで開かれました。その時に谷将軍から、店名を『得月楼』と改めるよう言われたんです。北宋時代に蘇麟(そりん)が詠んだ『近水楼台先得月』(水辺に近い楼台は真っ先に月の光がさす)という詩から採ったそうです」

大尽が喜ぶ企画を次々開催

 谷が中国詩から名前を選んだ背景には、この店が創業当初から文化的交流を担うサロンの役割を果たしてきたことがある。

 「書画会を起こし、文人墨客を全国から集めて作品作りをしてもらいました。中には3年も居続けて描いた人もいたそうです。そうしてできあがった書や絵を大広間に展示して、評判を呼んだんです」

 店名を変えた後も繁盛し、明治25年(1892)、約1キロ東の稲荷新地に新築移転。それでも押し寄せる客を収容できないため、次々に建て増しをした。

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最終更新:6/27(木) 12:20
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