ここから本文です

昭和20年、連合国に占領された帝国日本

6/28(金) 12:25配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

ポツダム宣言の受諾で終戦に

1945年(昭和20年)7月17日から米・英・ソの三首脳はドイツのポツダム市に顔をそろえた。暗号名「ターミナル(終着駅)」とされた会議の主題は、ヨーロッパの戦後処理に関する問題の討議で、日本の降伏問題はメインテーマではなかった。

会議が始まって1週間後の7月24日に、第8回会議が開かれた。席上、アメリカのトルーマン大統領が、日本に降伏を要求する最後通告の案文を示した。

案文はイギリスのチャーチル首相の賛成を得、中国の蒋介石総統の賛同も取って、7月26日に「ポツダム宣言」として日本政府に伝えられた。ソ連はまだ対日戦に参加していなかったので、宣言当事国から外していた(のちに参加)。

宣言は13カ条から成っているが、その骨子は次のようだった。

1)連合国による日本占領
2)日本の領土は本州・九州・四国・北海道とその周辺の諸島に限定されること(朝鮮の独立、台湾・満州の中国返還、南樺太のソ連返還、すべての占領地の放棄)
3)陸海軍の解散や軍国主義的勢力の一掃と自由主義の助長
4)平和で民主的な国家建設

当時の日本は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(大日本帝国憲法第3条)の主旨の下、政治や軍事の権力を天皇に集中させていただけではなく、天皇をいわば家長に見立てた家族的な国家観念の中で生活していた。

そういう形態を「国体」とか「国体観念」と称したが、ポツダム宣言を受諾して降伏することは、「国体」が制度的にも国民意識の上からも破壊されることを意味していた。

そのため宣言を受諾すべきか、拒否すべきか、最高戦争指導会議が開かれた。東郷茂徳外相、米内光政海相は国体護持を条件に受諾を説き、阿南惟幾陸相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長らは無条件降伏に反対を唱え、会議は暗礁に乗り上げた。そこにマスコミの誘導質問に引っかかったかのような、鈴木貫太郎首相の「(ポツダム宣言は)ただ黙殺するだけである」という発言が報道された。

この首相発言を宣言拒否と受け取ったアメリカは、最後の手段に出た。広島と長崎への原爆投下だった。

再び最高戦争指導会議が開かれたが結論は出ず、陸軍の若手将校の一部は「国体護持」を標傍し、本土決戦を呼号してクーデターによる降伏阻止を画策しだした。しかし、最終的には鈴木首相、東郷外相、米内海相らの強い意思表示を受けて、天皇自身による“聖断”で降伏が決定された。

1/2ページ

最終更新:6/28(金) 12:37
PHP Online 衆知(歴史街道)

記事提供社からのご案内(外部サイト)

歴史街道

PHP研究所

2019年8月号
2019年07月05日発売

680円(税込)

【総力特集:戦艦大和と零戦 日本人は何を託したのか】戦艦大和と零戦の開発に携わった人々、そしてそれを戦場で活用しようとした人々の想いに迫ります。

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事

Yahoo!ニュースからのお知らせ