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【1969年日本グランプリの記憶03】前哨戦を圧勝し自信満々で大一番に乗り込んだトヨタ7の思わぬリザルト

7/8(月) 19:14配信

Webモーターマガジン

トヨタはスポーツプロトタイプカーの開発で出遅れ

日産R382が完璧な1-2フィニッシュを決めた1969年日本グランプリ。前年の雪辱を期したトヨタ7は、川合稔の3位が最上位という結果に終わった。予選から排気量や完成度で上回る日産の後塵を拝し、レースでも大差をつけられての2年連続の苦杯。だが、ここに至るまでの開発の経緯を考えれば、3位は上出来とも言える結果だった。

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トヨタは1963年の第1回の日本グランプリから精力的に参加を続けていたが、1966年から富士に舞台が移り、グランプリの主役となったプロトタイプスポーツカーには静観を決め込んでいた。

しかし、プリンス対ポルシェの対決が話題を呼び、自社のトヨタ2000GTでは勝ち目がないと見るや、翌1967年の第4回日本グランプリを欠場。1968年日本グランプリに向けて、ついにプロトタイプの開発を決断する。それがトヨタ7だった。

「7」とは当時のFIA技術規定のグループ7(排気量無制限のオープンプロトタイプ)を表していた。開発コードネーム「415S」と呼ばれたメ初代モトヨタ7は、当時の最先端技術だったモノコックシャシを採用。マクラーレンM1A(1966年)に範をとったかのようなボディスタイルが特徴だった。

エンジンはトヨタ2000GTと同様に技術提携先だったヤマハ発動機が開発を担当した。ヤマハはアルミニウム合金ブロックを持つ3L V型8気筒の61Eを設計。排気量を3Lとしたのは当時の世界メイクス選手権のプロトタイプ規定が3Lに制限されたのに則ったためだった。

しかし、このある意味真面目すぎる判断が裏目に出る。ターゲットだった1968年5月3日の日本GPには、FIAレギュレーションに縛られない米国CAM-AM用5~6L級のシボレーエンジン搭載車(日産R381やローラT70)が大挙して参戦してきたからだ。

TNT(トヨタ・日産・タキ)の対決と謳われながらも、3Lの初代トヨタ7は主役に成りきれず、4台が出場して最上位が8位という成績に終わった「惨敗」直後の5月中旬、トヨタは5L V8搭載のまったく新しいトヨタ7(474S)の開発をスタートさせることになる。

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最終更新:7/8(月) 19:14
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