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『なつぞら』麒麟・川島明 実在モデルは高畑勲&宮崎駿の“育ての親”だった

7/11(木) 11:00配信

文春オンライン

 現在放送中のNHKの連続テレビ小説『なつぞら』では、下山克己というアニメーターをお笑いコンビ・麒麟の川島明が演じている。下山は、広瀬すず演じるヒロイン・奥原なつが入社したアニメーション制作スタジオ・東洋動画の先輩の一人で、以前は警察官だったという異色の経歴を持つ。いつもかぶっているハンチング帽がトレードマークだ。この下山のモデルとされるのが、実在のアニメーターの大塚康生である。大塚は1956年に東映動画(現・東映アニメーション)の第1期生として入社し、のちには多くのアニメーション映画、テレビアニメで作画監督を務め、日本のアニメーションの発展に大きく貢献した。1931年7月11日生まれの彼は、きょう88歳の誕生日を迎えた。

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アニメーターになる前は麻薬Gメンだった

 大塚康生は島根県に生まれ、小学2年生のときに山口県山口市に転居した。戦前から終戦直後にかけての少年時代には、機関車や自動車などのスケッチに熱中し、やがて絵で生計を立てたいと思うようになった。ただし、それを実現するまでにはかなり回り道をしている。旧制中学を卒業後、1951年に山口県庁に就職するも、翌年には厚生省の採用試験に合格して上京、関東甲信越地区麻薬取締官事務所に麻薬Gメンとして配属された(※1)。『なつぞら』の下山の元警察官という設定は、大塚のこの前職を反映しているのだろう。

 アニメーション制作に憧れたのは、ソ連のイワン・イワノフ=ワノ監督の『せむしの仔馬』、さらにフランスのポール・グリモー監督の『やぶにらみの暴君』(のちに改作されて『王と鳥』と改題)を観て衝撃を受けたのがきっかけだった。それから関連書を読むなどして独学していたころ、東映がアニメーション映画(当時は「漫画映画」と呼んだ)制作を始めるという新聞の小さな記事が目にとまり、日動映画社のスタジオを訪ねる。日動はこのときすでに東映と合併することが決まっていた。

作画監督になり、無名の高畑勲を抜擢

 日動を訪問したとき、大塚は、少年が杭に向かって槌を構えている絵を提示され、ここからこの少年が槌を打ち下ろすまでの動作を5~6枚で表現するよう課題を出される。これを彼は、絵というより演技力をテストされているのだと考え、自分の体を使ってポーズを確認するなどしながら1時間半ほどで描いて提出した。結果は無事合格で、東映でアニメーション制作が始まるまで日動で練習することが許される。その日出会ったアニメーターの森康二と大工原章、日動社長の山本善次郎、演出担当の藪下泰司は、このあと東映動画の礎を築くことになる。大塚はとくに森と大工原に、その後の自分のアニメーターとしての考え方や人に接する上での姿勢について強い影響を受けたという(※2)。

 先述のとおり大塚は1956年、東映動画に第1期生として入社。半年間の養成期間中には、2カ月ごとに審査を受け、各段階で設定された基準に達すれば、正式に制作に参加できることになっていた。彼は最初の2カ月目の審査でパスし、東映動画初の作品である短編『こねこのらくがき』(1957年)の制作に加わる。この頃、東映の社内報の座談会に出席し、藪下泰司にこの仕事を始めてからの感想を求められ、《私は絵は“自分の絵”というものはなくてもいいと思うんです。ただ、うしろ向きだ、前向きだといういろんな方角を示したスタイルさえもらえれば、あとは自由自在、どんなふうにでも描けるという熟練した職人というか、そういう自由に動かせる“動きが生命だ”という高さに達したいと思います》と述べた(※1)。

 このあと、東映動画初の長編アニメーション『白蛇伝』(1958年)では、大工原班のセカンド(第2原画)として活躍。長編第2作の『少年猿飛佐助』(1959年)で原画に昇格して以降は、多くの作品で怪物やアクションを手がけ、その筋のエキスパートという評価を得ていく(※2)。初めて作画監督に抜擢されたのは1965年、東映動画10作目の長編となる『太陽の王子』の制作が決まったときだった。同作で大塚は演出として高畑勲の起用を申し出る。会社側は無名の新人の起用に反対したが、テレビアニメ『狼少年ケン』での高畑の演出を高く評価していた彼は、粘りに粘って認めさせた(※3)。ただ、『太陽の王子』の制作は難航し、一時中断を経て、1968年に『太陽の王子 ホルスの大冒険』と改題してようやく公開される。この制作チームには、やはり新人だった宮崎駿も場面設計・美術設計で参加していた。

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最終更新:7/11(木) 11:00
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