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世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」5つの謎

7/12(金) 18:00配信

BEST TIMES

【百舌鳥・古市古墳群を巡る5つの謎】

■前方後円墳の形にはどのような意味があるのか? 

 仁徳天皇陵古墳に代表される前方後円墳は、日本独自の墳墓の形状だ。このような形が生まれた理由としては、各地の葬送文化が混ざったという説が有力である。

「前方後円墳は、円形の墳墓の前で葬送儀礼が行われていたものが、次第に儀式場が拡大して出来たという説もあります。いずれにせよ、弥生時代に発達した各地の墳墓の特徴が融合したもので、まさにヤマト政権が全国の文化を吸収した集大成。ヤマト政権が征服国家ではなく、社会を統合して作る統合型国家であったことが前方後円墳の特徴に現れています」(福永さん)

■なぜ大和から河内へ…巨大古墳群の移動の理由は? 

 4世紀中頃まで奈良盆地を本拠としていたヤマト政権は、4世紀末には和泉・河内へと移動し、巨大古墳築造の最盛期を迎える。しかし、これは王朝の交替を示すものではなく、連合政権内での主導権の交替だと福永さん。

「百舌鳥・古市古墳群の時代は、東アジアとの関係が非常に重要でした。そこで、海の玄関口になる大阪湾に近い和泉・河内の勢力が大陸との外交を担って政権の中枢にいたため、古墳の築造場所も大阪平野へと移ったのだと考えられます」

■3万本もの埴輪が並ぶ! 築造当時の姿とは? 

 墳丘が葺石で覆われ、周囲にはぐるりとベンガラで朱く塗られた埴輪が並べられていたというのが本来の姿。当時は周囲に遮るものが何もなかっただけに、見る者に一種、異様な威圧感を与えたことは想像に難くない。

「現在は樹木が生い茂り、大きさだけでなく見た目も山林と区別がつきませんが、築造当時は円形や方形といった幾何学的な平面形で構成されています。2段・3段と積み重ねられた墳丘は石に覆われることから、自然の山とは明らかに異なる人工構築物でした」

■貴重な宝物も副葬された! 内部はどうなっているのか? 

 仁徳天皇陵古墳の内部は発掘調査が行われていないが、明治5年(1872)の土砂崩れで石室が露出した際に長持形石棺や副葬品などが確認されており、その絵図が残っている。

「副葬品としてあったのは金銅製甲冑や太刀金具、鉄刀、ガラス製容器など。これらは被葬者の権力、または後継者の権威を示すためのものです。また、石室が貴重な水銀朱で鮮やかに塗られるのも巨大な権力の象徴。石室が人目に触れるのはセレモニーの時だけですが、そのために手間をかけて装飾したのですから。確かめようがないのですが、仁徳天皇陵古墳の内部にも間違いなく使われていたことでしょう」

■確定された古墳はない!? 被葬者は誰なのか? 

 日本の古墳は被葬者を特定する副葬品などが出土していないため、物証によって被葬者が判明した例はほとんどない。

「当然、仁徳天皇陵古墳もしかり。ただ、副葬品の甲冑が鍍金されていたことからも被葬者の権威の高さは明白です。豪族の場合は鉄板製ですから。この時代なら、倭の五王*のひとりであることは間違いないでしょう。ただ、被葬者が誰であるかということよりも、1600年も前の歴史の一片がそこに存在すること自体に、大きな価値があるのです」

*中国の歴史書『宋書』『梁書』に名が記された、古代日本(倭国)の王、讃・珍・済・興・武。『古事記』『日本書紀』に登場する第15代応神天皇から第21代雄略天皇までの誰かに該当すると見られている。

 

百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録有識者会議 委員
福永伸哉さん
大阪大学文学研究科長・文学部長。1959年広島県生まれ。大阪大学大学院文学研究科修了(文学博士)、2005年より大阪大学文学研究科教授。主な研究テーマは三角縁神獣鏡、前方後円墳などに関するもので、著書に『邪馬台国から大和政権へ』(大阪大学出版会)などがある。

取材・文/野上知子
取材協力/百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議事務局、堺市、堺市博物館

 

文/一個人編集部

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最終更新:7/12(金) 18:00
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