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乃木坂46、グループが育んできた基調とは ドキュメンタリー映画が映すメンバー同士の愛着

7/14(日) 8:03配信

リアルサウンド

 乃木坂46のドキュメンタリー映画『いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46』(以下、『いつのまにか、ここにいる』)は、2010年代に作られてきた多人数アイドルグループのドキュメンタリー映画群のなかでも、ひときわ静的なたたずまいを持っている。わかりやすくセンセーショナルな映像が呼び物になるわけでも、不条理な負荷が映し出されるわけでもない。けれども、もちろんそれはドラマの欠如を意味しない。

 このドキュメンタリーが軸にするのは、乃木坂46メンバーそれぞれが他のメンバーたちに向ける愛着、あるいはそれぞれが乃木坂46メンバーとして過ごす日々に抱く愛おしさである。それはなにか特定の劇的な事件によって駆動されるのではなく、穏やかな言葉や振る舞いのうちに豊かに滲み出してくるものだ。一方でこの作品は、日本レコード大賞の連続受賞や西野七瀬の卒業など、グループの形も社会的位置も否応なく移り変わってゆく季節を追尾した記録である。しかしまた、この映像の主体はそれらのイベントそのものではなく、あくまでメンバーそれぞれが相互に向け続ける、仲間への愛着のありようである。

 そうした筆致だからこそ、本作を象徴する瞬間も、あからさまに動的な場面ではなく、ある静謐な円陣をとらえたワンシーンに訪れる。作中で二度用いられるこの円陣シーンは、一度目は本作の監督・岩下力が乃木坂46へのパースペクティブをつかむ起点として挿入され、二度目にはメンバー相互の慈しみ合いやわずかな刹那の尊さ、圧倒的な有名性を背負った立場を引き受けること、プロフェッショナルとしてある頂点を掴む直前の緊張感など、幾重もの意味を含んだ瞬間として立ち現れてくる。このシーンが物理的に映し出すのは、メンバーの手指の微細なうつろいや円陣を解いた直後の表情の変化など、あくまで静かな動きの連続である。このように静的なひとときのうちに、このグループが育んできた基調が集約されていくのが、本作の特徴のひとつになる。

 もっとも、監督の岩下ははじめからこうした基調を捉えられていたわけではない。この作品を特徴づけるもうひとつの要素は、乃木坂46にアプローチする岩下の模索にある。岩下は本作序盤、「何を映画にすればいいのか」についての戸惑いを素朴なほどに吐露してみせる。それは、乃木坂46の醸成する空気がわかりやすく異常だからではない。むしろ、当代のアイドルグループとして「すべてがうまくいっている」ように見えるからこそ、岩下は逡巡する。その逡巡は岩下があらかじめ抱いていた、「アイドルドキュメンタリー」なるもののイメージに起因している。

 それは、彼の示した言葉でいえば、「少女の成長譚」であり、「一般の少女がスターを目指す道のり」である。岩下は当初、そうした要素にこそアイドルドキュメンタリーの真骨頂や最大のドラマ性を見出していた。岩下の迷いは、それら典型的なドキュメンタリーの鋳型を投影する対象として、乃木坂46がなじまないことによる。

 岩下が想定するような一般の少女がスターを目指す成長譚を数多く紡いできたのは、たとえば2010年代のAKB48グループに代表されるドキュメンタリー群である。既存のファン層を超えて社会的なインパクトを与えたそれらいくつかの作品は、しばしば恣意的に引き起こされる事件に翻弄される小さき者たちとしてアイドルを映し出し、ときに「戦場」とのアナロジーをもって論評されてきた。そうした手触りの作品は、いかにも「ドラマ」を見出すための機会にあふれている。

 ドキュメンタリーがあくまで作家の視座によって現実を切り取るものである以上、岩下が乃木坂46の活動のうちに、あくまでそうしたおあつらえ向きの鋳型を求め探そうとすることも不可能ではないはずだ。しかし、エトランゼとして乃木坂46に密着する岩下は、そのような明快なドラマに肉薄することを選んでいない。ナレーションの機能をもって時折挿入されるテロップでは常にメンバーの名に敬称を添え、探るようにメンバーたちに質問を投じるさまには遠慮と敬意が相半ばする。そのアプローチゆえ、本作には監督自身の模索が常に随伴し、おさまりのいい「物語」に着地するわけではない。けれども他方で岩下のそのアプローチは、乃木坂46が担うメディアスターとしての職業的性格をあくまで尊重する姿勢ゆえに生まれるものでもある。岩下が彼女たちをあらかじめプロフェッショナルとしてまなざし、その姿勢を保ち続けたことは、この作品のトーンを決定するうえで密かに大きい。

 そもそも、ドキュメンタリー映画第1作である2015年の丸山健志監督作『悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46』(以下、『悲しみの忘れ方』)から、乃木坂46は「戦場」としてのアイドルシーンを相対化するような存在としてあった。メンバーの「乃木坂46以前」すなわち一般人としての視線に軸が置かれた『悲しみの忘れ方』でみられたのは、アイドルシーンを半ば異界のように捉え、「戦場」への違和を示してみせる乃木坂46メンバーの姿である。そして、やがて乃木坂46はその延長線上に、「戦場」への素直な順応とはいくらか異なるスタイルで自らのブランドを築く。それゆえに、本作『いつのまにか、ここにいる』で彼女たちを物語るのはやはり劇的な事件ではなく静謐な円陣の瞬間であったし、「仲の良さ」というきわめて日常的な場面に看取されるものが一大テーマとして浮上する。

 もちろん、2015年のドキュメンタリー第1作と本作とをつなぐ数年間のあいだに、彼女たちの立場はそれこそ劇的に移ろっている。『いつのまにか、ここにいる』では前作を踏襲するように、メンバーが故郷へ帰還する姿に密着している。しかし、前作においてそのパートは彼女たちが「一般人」としての視野を持っていることを浮かび上がらせる効果を持っていた(だからこそ、ナレーションが一般人としての「母親」目線であることに大きな意味があった)のに対し、本作では巨大な有名性を持つ芸能者として故郷に対峙せざるを得ない。故郷への帰還パートは、彼女たちを取り巻く環境が決定的に変化したことを示す象徴的場面でもある。

 しかし、そうした圧倒的なメディアスターの立場を背負いながらなお、この映画が帰着するのは、メンバー同士の愛着という、日常のありふれた瞬間に見出される慈しみ合いである。集団によって絶えず生成される群像劇は、グループアイドルのコンテンツの大きな柱となる。けれどもそれは、社会的にインパクトの強いイベントや過剰な負荷を引き受けるような試練そのものを主役にしたドラマである必要はない。なにげない生のいとなみを互いに尊び、慈しみ合うこと自体によっても、群像劇としての表現は豊かに生まれうる。岩下が模索しながら探り当てたのは、そんなグループアイドルの現在形である。

香月孝史

最終更新:7/14(日) 8:03
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