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津田の剛速球vs.原のフルスイング(1986年9月24日、巨人×広島)/プロ野球1980年代の名勝負

7/18(木) 11:02配信

週刊ベースボールONLINE

プロ野球のテレビ中継が黄金期を迎えた1980年代。ブラウン管に映し出されていたのは、もちろんプロ野球の試合だった。お茶の間で、あるいは球場で、手に汗にぎって見守った名勝負の数々を再現する。

【画像】マウンドに立つ津田。ストレートで原の左手を破壊した

自己最多の36号本塁打を放った試合で……

「最後、いい場面で(打席が)回ってきてね。僕自身の状態でいえば、6、7分の力でしか打てない。それ以上の力で打ったら、おかしくなるというのは自分でも分かってた。けど、津田(津田恒実)が全力投球でしょ。それに対して、自分の力をセーブするなんてダメだと思ったんですよ。それで『よし、この打席、行こう』と思って振った。いまだに、あのスイングは自分の一番いいスイングだと思っています」

 と、巨人の原辰徳は振り返る。ドラフト1位で1981年に入団。80年代の“四番・サード”として活躍した“若大将”だ。3年目の83年には103打点で打点王。だが、王貞治、長嶋茂雄らと比較され、批判に苦しめられることも少なくなかった。その多くが、「勝負弱い」「40本塁打は欲しい」といったもの。そんな原が、最も40本塁打に近づいたのが、自己最多の36本塁打を放った86年だろう。

 その36号が飛び出した9月24日の広島戦(後楽園)。この日を最後に、原は残りシーズンを棒に振ることになる。それだけではない。現役を引退するまで、自分のスイングができなくなってしまったという。ゲーム差なしの2位で首位の広島を追う試合。原は守備中に左手首を痛めていたが、首位に迫っている状況で、痛み止めを打ちながら出場していた。3点ビハインドの9回裏二死一塁。打ち取られたら敗れる場面で、原は打席に入った。原が打てば、首位の座を奪う可能性は残される。

 そんな原の前に立ちふさがったのが津田だった。85年から2年連続で三冠王に輝いた阪神のバースをして「ツダはクレージーだ」と言わしめた“炎のストッパー”。この86年も前半戦は不振に苦しむ投手陣を、そして優勝へと突き進んでいく広島を支えてきていた。

 この試合、巨人は先発の槙原寛己は制球が定まらず、1回表から2四球もあって一死満塁のピンチを招き、長嶋清幸の犠飛で1点を先制される。2回表からは調子を取り戻すも、なかなか打線が得点を奪えない。そして5回表、槙原は先頭打者で投手の大野豊に二塁打を浴びて降板。広島は一番の高橋慶彦が犠打で走者を進め、三番の小早川毅彦が適時二塁打を放って、さらに1点を追加した。だが、7回裏一死、原が大野から36号ソロ。ようやく巨人が1点を返した。広島は続く鴻野淳基から大野が三振を奪ったところで、津田をマウンドへ送る。

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最終更新:7/18(木) 11:15
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