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幕末から明治維新へ、激動の日本に暮らした「ドクトル・ヘボン」が聞いて綴った日本語

7/19(金) 15:06配信

サライ.jp

文/晏生莉衣
ラグビーワールドカップ、東京オリンピック・パラリンピックと、世界中から多くの外国人が日本を訪れる機会が続きます。楽しく有意義な国際交流が行われるよう願いを込めて、英語のトピックスや国際教養のエッセンスを紹介します。

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昨今、議論を呼んでいる、日本人の姓名に関するローマ字表記について、前々回、前回で取り上げました。日本のパスポートに表記されている氏名のローマ字に「ヘボン式」が使われていることは、一般的に知られていますが、では、なぜ「ヘボン式」と呼ばれているのかなど、あまりくわしくは知らないという方が多いのではないでしょうか。

「ヘボン式」ローマ字の考案者は、アメリカ人医師で、キリスト教伝道者のジェームス・カーティス・ヘップバーン博士(James Curtis Hepburn、1815~1911年)です。ペンシルバニア州ミルトンの裕福で信仰深い家庭の長男として生まれ育ったジェームスは、プロテスタント系のプリンストン大学卒業後、ペンシルバニア大学医学部に進学しました。牧師か法律家にという両親の思いをよそに医学の道に進んだヘップバーン博士でしたが、医師となってキャリアを積む中、名家の娘クララと出会い、お互いが持っていた海外宣教の志に共鳴します。二人は結婚し、その1年後に、ヘップバーン博士はクララ夫人とともに見知らぬアジアに向かって船旅に出ました。

とはいっても、ヘップバーン博士は初めから日本を目指したのではありません。当時の日本は鎖国政策を取っていて、海外に門戸を閉ざしていました。博士の派遣先となったのは中国でした。夫妻はシンガポールに到着後、アヘン戦争で長く足止めをされたあと、ようやく福建省の厦門(アモイ)に渡って伝道を開始しましたが、夫妻でマラリアにかかって健康が悪化し、約2年で活動を打ち切って帰国しなければなりませんでした。

帰国後、ヘップバーン博士はニューヨークで開業し、大成功を収めます。しかし、中国での失意を抱え続けていた博士は、ペリー来航を経て日本が開国し、教会が日本への宣教を計画し始めると、これを神が与えてくれた新たな使命と感じて日本行きを志願します。大繁盛していた医院を閉じて再び危険を伴う海外宣教に出ることに、両親や親戚、友人一同は大反対しましたが、それ押し切って、唯一の賛同者で強力な協力者のクララ夫人とともに、サムライの国日本に向かったのです。ヘップバーン博士44歳、クララ夫人42歳の時のことでした。

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最終更新:7/19(金) 15:06
サライ.jp

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