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「所得格差」を論じる立場

7/20(土) 5:00配信

商業界オンライン

  マスメディアは、国民の所得金額の実態と推移を調べ、所得格差が縮小した・拡大したという。マスメディアだけではない。経済学者も経営学者も評論家も全く同じである。かつて話題になって、今、誰も振り向かないかのピケティの論文も、ご他聞に漏れない。マスメディアや評論家や学者は、それでいい。彼らは生活ではなく、経済そのものを論じているのだから。

 だが、こと流通業に関連するものが、それをウノミにしていたら、おかしいといわねばならない。特に米国へ行って流通業を視察したことのある人間が、これらの所得に関する事実や格差を考えていたら、絶対におかしい。

「所得の実態あるいはその格差」を論じるには、3つの立場がある。1つは上記の全国統計データを論拠にして、それを論じる立場。2つは自らの見聞やインタビューを通じてそれを語る立場、例えば「米国の貧困」を論じた、多分に党派的な偏見あるいは思想を前提にした、岩波新書の筆者の立場(書名は失念)。そして3つは、流通業なら誰もが分かっていなければならない立場である。

 1がよりどころにするのは、全国・国家・研究所データでの平均値・最大公約数・全国データである。2が論拠にするのは、自らの生活実態の見聞である。だが、われわれは違う。われわれがよりどころにすべきは、「お金の使い出」である。「使い出」とは、100円あるいは1ドルで、どれだけのモノを買うことができ、そうすることでどんな生活が営めるか、である。

 こういえば、先の2つの立場に問題があることが分かるだろう。1は、100円や1ドルを100円や1ドルという数字データでのみ捉えている。だが、人々にとって問題なのは、国家統計でも他国他人との比較でもない。といって、2のような貧困を憂うること、でもない。人々が一番関心を抱いているのは、その「100円あるいは1ドルで、何が買え、そうすることでどんな生活が営めるか」である。

 同じ日本でも、仮にスーパーマーケットが存在しない地域Aと存在する地域Bを考えたとき、全く同じ収入でも、同じ100円の「使い出」が違ってくる。同じパンをA地区では1つ、B地区では2つ買えたとしたら、同じ100円の使い出は倍異なり、そこから推論すると、同じ月額額面所得30万円が、A地区で30万円分の使い出があり、B地区では60万円の「使い出」があることになる。

 こう考えたとき、いかに経済学であっても、事情の全く異なる国々を比較するピケティの論が、全く無意味であることが分かるだろう。それは数字統計のマジックでしかない。だが、一見、生活実態に即した2の立場も、この「お金の使い出」の視点を抜きに、お金を使った結果の生活だけを見ていることになる。それをピケティ風の世界比較で正当化しているのではないか。

 この「お金の使い出」からモノを見る立場こそ、流通業の立場である。私が論じたいのは、もちろん国民生活の実態でも世界経済の比較でもない。この「お金の使い出」が、カスタマーを創ることと深く関わっていることこそ、論じたいテーマである。なぜなら、セブン-イレブンが出現し普及するまで、セブン-イレブンの存在を前提にした「お金の使い出」も、そのお金を使った結果実現する「生活」も、従ってその「お金の使い出」を前提にした「生活」を望む「カスタマーになる人々」も、存在していなかったからである。100円の例を持ち出した序でにいえば、ダイソーにも同じことがいえる。ダイソーは、文字通り今までにない「100円の使い出」を、大量に創造した。

 それは同じ100円の価値あるいは「使い出」が、セブン-イレブンあるいはダイソー出現以前と出現後では、異なった、ということである。事あるごとに、家計調査や全国データでモノを考えることのバカらしさを強調してきた真の理由は、ここにある。

 先に米国視察という体験を引き合いに出したのは、伏線である。ダラ-・ストアを見よ。ダラ-・ストアは、これまでウォルマートで買物していた人々の「お金の使い出」を一変させた。確かに1品単価はウォルマートの方が低い。だが、それは10個まとめ買いしたときの単価である。ダラ-・ストアではトイレット・ペーパーが2個単位で買える。1個単価はウォルマートに及ばなくても、ここに異なる「お金の使い出」の提案がある。

 岩波新書の筆者なら怒り心頭に発するだろうが、おかげでウォルマートでさえ生活に困難を感じていた人々が、ダラ-・ストアの出現で、日銭で暮らせるようになった。それは同時に「頑張って・あるいはさまざまなガマンをして、所得を増やそう、よりよい暮らしをしよう」という生活観を見直し・現状是認の価値観を生む「お金の使い出」である。

 実はダラ-・ストア以前にそれを、それ以上に大々的にやったのが、他ならぬウォルマートである。多くの日本人視察者は、ウォルマートのスーパーマーケット売場を見て、首をかしげる。だが、それは一面から見れば、日本がいかに「お金の使い出」の選択肢が限られた平均化した社会か、を物語る光景でもある。

 そう見たとき、極論すると「米国の中以下の低所得層」を創造したのは、ウォルマート・スーパーセンターだといい得る。ここに日頃主張する「カスタマーの創造」がある。カスタマーは、集めるものでも、奪うものでもない。集める・奪うとは、いかにも平均的・最大公約数的データ論者の発想である。カスタマーは、販促によってではなく、アソートメントやストア・ブランドや「ピービー」によって、新たに創造されるもの、である。

 カスタマーを創るといえば、必ず「お客様第一主義」という精神論が持ち出される。だが、およそ精神論からは、何も生まれない。それは多くの場合、接客要員説得の典型的な「販促」思考であり、技術の不在を糊塗する「心構え」論である。それは無力の自白でしかない。カスタマーを創造するのは、戦略的発想であり、それを実現する技術である。

 ウォルマートやセブン-イレブンが、なぜチラシをまかずに、販促をせずに、カスタマーが創造できたか。多くの論者は、ここでまた、間違える。EDLPを持ち出すからである。そこで多くの論者が暗黙の前提にしているのは、「同じモノを・より安く売る」ことである。お里が知れる、とはこのことだ。これこそ平均値発想の典型である。

 ウォルマートの画期的なことは、同じモノではなく異なるモノ、これまでと違う「お金の使い出」を提案し、新しいカスタマーを生んだことにある。

 東急ハンズには、ネームを入れたストア・ブランドが存在しないが、そのアソートメントは独自であるように、ウォルマートには二流のナショナル・ブランドとその廉価版「ピービー」しか存在しないが、ウォルマートは明らかに「お金の使い出」を変え、そうすることで「カスタマーを創造」したのである。

※この原稿は島田陽介先生のアドレス宛に、メールアドレスを送付した方に毎月不定期に送られる「今月の提言」から抜粋したものです。

島田 陽介

最終更新:7/20(土) 5:00
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