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チャーチルとド・ゴール 今さら聞けないブレグジット その3

7/24(水) 11:02配信

Japan In-depth

【まとめ】

・「1946年の二つの演説」から、欧州にとってソ連圏の存在は脅威そのもの。

・仏ド・ゴール大統領はイギリスの加入に断固反対だった。

・1960年代、仏独の発展は目覚ましく、英は停滞していた。

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「バルト海のステテティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中欧・東欧の古くからの首都は、このカーテンの向こう側にある。ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ウィーン、ブダペスト、ベオグラード、ブカレスト、ソフィア。これらの有名な都市とその周辺の住民は(中略)、モスクワからの厳しい統制を受けている。(中略)これは、我々がその解放のために戦ったヨーロッパの姿では断じてない」

1946年3月、英国のウィンストン・チャーチル元首相が、米国での講演で述べたこの言葉は、冷戦構造を端的に表現したものとして日本でも有名だ。

ちなみに鉄のカーテンというのは、劇場などにある防火シャッターのことで、外交問題において、相手が鉄のカーテンの向こう側にいる、と言った場合は、「まともな交渉ができる相手ではない」という比喩として、英国では結構昔から使われてきたようだ。つまり、チャーチルの造語ではない。ともあれ、チャーチルはソ連圏の存在について、脅威以外のなにものでもない、と強調したわけだ。

実は同年、スイスにおいても講演し、こんなことも言っている。「我々には、平和と安全を保証する〈ヨーロッパの家〉と呼ぶべきものが必要だ」「ヨーロッパ合衆国の創建を今こそ目指すべきである」日本では、前述の「鉄のカーテン演説」ばかりが有名だが、欧米の戦後史を学ぶ人は、この「ヨーロッパの家演説」とあわせて「1946年の二つの演説」と教わっている。

とどのつまりチャーチルは、戦後最初にヨーロッパ統合思想を唱えた一人であったことになるが、皮肉にも、イデオロギーにおいてチャーチルの衣鉢を継ぐと自負している保守党右派の政治家には、EU離脱派が圧倒的に多い。

これについて私は、離脱派の代表的な論客とされる国会議員に直接質問をぶつけたこともあるのだが、「そもそもチャーチルが言いたかったのは、ソ連の脅威に対抗すべく、西ヨーロッパは過去の因縁を捨てて結束すべきであるということで、現在のEUのような統治形態を望んでいたわけでは決してない」というのが、彼らの共通認識であるようだ。

これまた皮肉な話ということになるのだが、冷戦が終結したのを期に、フランス社会党が「社会主義国家建設」からヨーロッパ統合へと方針を転換したことで、単一通貨ユーロの導入など、統合が一挙に加速されるのだが、その流れもまた、一朝一夕にできたわけではない。

一度時計の針を戻して、前回紹介させていただいた、1951年のシューマン宣言以降の動きを、少し見て行くことにしよう。

1953年、前回紹介した石炭鉄鋼共同体(ECSC)加盟6カ国は、石炭と鉄鋼に鉄くずを加えた、資源の共同市場を創設。

1957年、加盟国間における労働者の移動の自由などを保証したローマ条約が批准され、翌58年、欧州経済共同体(EEC)が発足する。

英国にとっては、愉快な話ではなかった。チャーチルの演説をもじって言えば、「ヨーロッパの西半分を横切る経済ブロックが出現した」わけである。

当然ながら、この段階で仲間入りを目指す選択肢もあったのだが、フランスの指導者であったド・ゴールが、アングロサクソン憎しの感情に傾斜していた。とどのつまり、英子君加入には断固反対であったのだ。

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最終更新:7/25(木) 9:10
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