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京マチ子と『羅生門』の亡霊へのレクイエム 『黒澤明の羅生門 フィルムに籠めた告白と鎮魂』

8/3(土) 11:00配信

Book Bang

 人間の心の闇やエゴイズムを克明に描いた黒澤明の『羅生門』。一九五〇年に公開されるや西洋から称賛され、歴史を超えて愛されてきたフィルムである。この名高い映画でヒロインを演じた京マチ子が、本年五月に享年九十五で逝去した。

 この女優の凄いところは、日本の四大巨匠(小津・溝口・黒澤・成瀬)の揺るぎないスタイルに亀裂を入れた点だ。たとえば小津安二郎の『浮草』で豪雨のなか中村鴈治郎と罵倒しあう芝居は、格調高い小津的調和に破綻をもたらし、『あにいもうと』の森雅之との乱闘でも、相手に体ごと飛びかかっていく凄絶な喧嘩は成瀬巳喜男の厳密な空間を破壊する。彼女の過剰なアクションは、物語以上に脳裏に焼きついて離れない。溝口健二の『赤線地帯』のミッキーは赤線の娼婦だが、「うちヴィーナスや」「八頭身や」と言い放つあの役を、あるいは『雨月物語』の能面顔が豹変しておぞましさを覗かせるあの幽霊を、京マチ子以外に誰が演じられただろうか。

 私は自著『美と破壊の女優 京マチ子』(筑摩選書、二月刊)で彼女に「千変万化」という言葉を与えた。デビュー直後、日本女性の規範をぶち壊す「肉体派女優」と、伝統的な古典女性を演じた「グランプリ女優」の相反するイメージに引き裂かれたが、その〈分裂〉こそが彼女の資質であり、変幻自在なペルソナによって彼女は「カメレオン女優」として開花していったのだ。

 その契機となったのが『羅生門』である。複数の人物の主観で回想される京マチ子は、弱々しい大和撫子から妖艶なヴァンプ、気丈で力強い女性を見事に演じ分けた。彼女はキャリアを通じて人間の喜怒哀楽、あらゆる感情を全身で表現した比類ない映画女優だった。当初、黒澤はヒロインに原節子を考えていたというが、果たして原に侍の妻、真砂(まさご)が演じられたかどうか――あの肉感的なエロティシズムは京マチ子にしか醸し出せなかったに違いない。歴史に忘却されたこの偉大な女優を救い出し、その功績を映画史に位置づけること。訃報を知ったとき、どうにか生前ご本人に書籍を届けることができた私は、深い喪失感とともに安堵のため息をついた。

『羅生門』で歴史に忘却された人物は京マチ子だけではない。出演者ではないが、その存在を色濃くフィルムに焼きつけている人物――活動弁士のスターだった黒澤の実の兄・丙午(へいご)である。享年二十七という若さで彼はみずから命を絶った。

 黒澤映画のいたるところで顔を見せる兄の亡霊――。ポール・アンドラ『黒澤明の羅生門 フィルムに籠めた告白と鎮魂』は、絶対的な存在であった兄が、いかに黒澤映画に影を落としているかを解き明かす。幾度となく解釈ゲームにさらされた『羅生門』だが、実のところ個人的に、何度観ても、どんな分析を読んでも、どこか到達できない「距離」のようなものを感じていた。だが、本書を読んだ今、『羅生門』や黒澤明にようやく接近できたという確かな実感がある。

 寓意に満ちた平安朝の時代劇を、筆者は徹底して個人的な映画として読み直す。ホームドラマとは無縁の黒澤映画を、家族の痕跡が色濃く残った記録映画(ドキュメンタリー)として捉え返すのだ。スクリーンの細部から手繰り寄せられるのは、兄・丙午とともに弟・明が生きた証であり、超自我としての兄がいかに決定的な影響を及ぼしているかを筆者は巧みに浮かび上がらせる。この兄なくして黒澤明は誕生しなかったと断言してよい。

 筆者は、黒澤の自伝『蝦蟇(がま)の油』を告白的「映画」と見立て、構成から文体まで高解像度で分析する。そして黒澤の幼少期の恐るべき体験が、複数の登場人物の視点からフラッシュバックされる。すなわち、幼少時代を一緒に過ごした植草圭之助や兄を知る弁士、当時の新聞記事など、兄の死を物語る(黒澤を含めた)証言者たちを召喚し、映画と同じく複数の視点から兄の自死を繰り返し振り返るのだ。いうまでもなく、この書物はもう一つの『羅生門』なのである。

 黒澤の過去に遡り、筆者はドストエフスキーや芥川龍之介の影響、侍の声を代弁する巫女(みこ)の意義など、映画を形づくる要素を彼の個人史から次々に検証してゆく。このフィルムには、これまで気づかれなかった死者たちの「声」が沈潜している。だから私達は見過ごされてきた京マチ子と黒澤丙午に鎮魂の祈りを捧げ、黒澤の真の「告白」に耳を傾けよう。(きたむら・きょうへい 東京工業大学准教授・映画研究)

[レビュアー]北村匡平(東京工業大学准教授・映画研究)
きたむら・きょうへい 

新潮社 波 2019年7月号 掲載

新潮社

最終更新:8/3(土) 11:00
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