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灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(63)

8/4(日) 12:00配信

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■第4章 新たな船出

 観光客で賑うJR鎌倉駅周辺を避け、大船駅からタクシーに乗ること十数分。緩やかな上り坂が長く続いていくと、頭上にはモノレールが走る。

 この辺りは、春にソメイヨシノが花をつける桜の名所だ。

 すると目の前にひらけて見えたのは、「鎌倉山」と彫られた高い石碑を中心にした、小さな三叉路のロータリーだった。

「ここからが鎌倉山です」

 運転手の声を合図に車は山道に入っていく。山道といっても両側2車線の道路で、隔離された歩道は無い。

 勾配はぐっと急になり山らしくなってくる。目をこらして見ていると、緑の奥に隠れ家のように点在する洒落たカフェやレストラン、そして別荘なのか自宅なのか分からないが瀟洒な家が目に入る。

「黒幕」との異名を持つ菅原通済によって企画・開発が始められ、昭和4(1929)年から売り出されたのが「鎌倉山」だった。

 上水道・電気・電話などの基盤が整備された最先端最高級の別荘地・住宅地というのがうたい文句で、通済の鎌倉山住宅株式会社は高級志向を打ち出すのに成功し、名士や有名人が居を構えたりもしたが、伸びしろが得られず、すぐに鎌倉山は通済の会社から「西武」の運営に変わっていった。

 しかしそれから半世紀以上の時が過ぎても、そこにこだわりの家やお店を見ると、家や別荘地を構える人、店を出店する人々に鎌倉山を特別なものに思う気持ちを感じさせられる。

 筆者の乗ったタクシーは、菅原通済の別荘跡地「らい亭」を通り「高砂」と書かれたバス停を過ぎ、その次の停留所「旭ヶ丘」で止まる。

「高砂」と「旭ヶ丘」はかつての地名であり、今もバス停にだけその名前が密かにひき継がれている。

「旭ヶ丘」のバス停付近の角には、オレンジ色をした筒の人形が口を開けているような昔ながらのポストがあり、その場所に喫茶「マウンテン」が営業をしている。同じ場所に、戦前戦後と喫茶店主の先代が営んでいた、タバコ・雑貨・食料品店を商う「網野商店」が存在していた。

 その「網野商店」だった角を相模湾方向に歩き、突き当たりを曲がったところに、藤原義江あき夫妻のかつての家が存在していた。

 藤原家は鎌倉山売り出し最少分譲単位の500坪の敷地を所有していたが、今では幾つもに分割され、それぞれ主張のある家々に生まれ変わっている。

 あきは、この鎌倉山で大東亜戦争をはさんで20年以上暮らしたことになる。

 標高100メートルの場所から見おろすのは木々に包まれた相模湾で、眼下には七里ヶ浜、右手には江ノ島が見てとれる。

 あきはこの景色を何十年も見ながら、義江との愛をはぐくみ、時に激しく疑いながら家庭というものを築き守っていったのだ。

 

「ごめんくださいまし」

「あら、藤原の奥様。お元気でよかったです。本当に、大変な戦争でしたね」

「この辺りは奇跡的に空襲を免れましたわね」

「はい、でもこのとおり、今はお分けするものなんて何もありゃしません」

「そうですね……。空からの攻撃は一段落ですが、アメリカの侵略はどうなりますかね」

「本当に、ここら辺りもどうなってしまうのでしょう」

「また、参りますわ」

 あきは家から一番近いお店「網野商店」をのぞきに来た。まだ商いなど始められる状況ではないことはわかっていたが、人恋しさと、地元の声を聞いてみたかった。何せここら辺りは別荘地でもあるので人は少なく、お隣の元内閣総理大臣の近衛文麿一家もその家を空けたままでいる。

 店からの帰り、いつもと変わらない相模湾の穏やかな表情を見ながらあきは、

「戦争は一段落し、とりあえず命は助かった。これからも敵の襲撃を免れたこの静かな山で夫と息子とつましく生きて行くのだ」

 と誓った。その誓いは、敗戦国としてこれからどんな屈辱にも耐えていかなくてはいけないという、どう整理をつけて良いかわからない複雑な気持ちでもある。体験したことのない不安がよぎってくる。

 家に帰ると夫が所在なげに今日も居る。

 猪突猛進にオペラだけをやって来た夫にこれからオペラ以外何ができるというのか。

 夫もこれから始まる苦痛と屈辱に耐えていかなければならないのだろう。

 思えば、「国民的歌手」とたたえられ栄光の頂点にいたことのある夫も、日本が戦争の道に突き進んでいってからは慰問に次ぐ慰問で歌い、台湾では負傷した。日本では運営困難なオペラを根付かせるために奮迅していたにもかかわらず、戦争で働き盛りの40代を棒に振ってしまったようだ。夫もこの戦争の犠牲者と言ってよい。

 そんな中、あきたちのもとに入って来たのは、市村羽左衛門丈の訃報だった。

 この5月に疎開先の信州の金田中温泉で急逝したという。あきは、少女の頃から恋い焦がれ贔屓にしてきた「花の橘屋」羽左衛門を死に追いやったのは戦争に違いないと、悔やんでも悔やみきれない気持ちになった。70歳まで続けてきた天職と言われる歌舞伎役者をやめ、環境の違うところに引っ込まざるを得なかったことはどれだけ暗澹たるおもいであったろう。

 それから11年後の昭和31(1956)年、作家の里見弴が羽左衛門の出自の秘密を『羽左衛門傳説』として毎日新聞に連載した。その中で羽左衛門は、アメリカ軍人であり外交官のチャールズ・ルジャンドルと、日本人・池田いととの間に生まれた混血児であったとされている。日本古来の「歌舞伎」という伝統芸能の社会で、羽左衛門は混血だということを隠し続けた。

 混血というだけで差別やいわれのない偏見のある時代だ。

 義江も少年期までは混血という自分自身の血にぬぐいきれない憎悪を持っていたが、抜きん出た容姿が舞台ではひと際映え、女たちの熱い視線を集めるということを知ってからは、開きなおったようにむしろ混血の良さを生かしている。しかし伝統の世界で生きる羽左衛門にとって、それは隠し通さなければならない秘密であった。

 あきが結んだ義江と羽左衛門の縁で、花札をし旅行をし、女の話や芸術の話をする際、羽左衛門は義江の眼の奥にある、同じ西洋人の血を感じ、より近いものを感じ取っていたに違いない。

 里見弴が羽左衛門の生まれを発表する前から、義江だけはこのことを知っていたのかもしれない。

 少女時代から羽左衛門贔屓のあきはのちに、自分の強烈な好みは欧米人の混血の血が交ざった男なのだということを思い知ったのではないか。

 直接の原因ではないにせよ戦争という無残な環境の変化で命を落とした羽左衛門。

 そして、軍歌だ慰問だなどとやっているうちに自分たちの貴重な時間が奪われた。

 女の自分はまだいい。仕事では最も脂の乗っていた年齢の夫が戦争によって失ったものは大きすぎた。

 実際義江は、終戦の日から何も手に付かないようで家の中で浮かない顔をしている。

 仕事も打ち合わせも何もないわけであるから、東京の大好きな「帝国ホテル」に行く用もなく、来る日も来る日も鎌倉山の家で窓の外をながめたりしている。昭和のはじめの頃から住む鎌倉山のこの家に、夫がこんなにも居るのは未だかつてないことでもあった。

 あきは、3度の食事の支度や洗濯、庭の手入れや家の中の掃除に追われ、生き生きと動き回っていた。

「オペラはもう2度とできないだろう」

 2人の共通認識であった。

 あきの方はそれならそれで構わない。2人で隠居のような生活も悪くないと思う。今までのここでの生活をふり返っても、夫は働きすぎだった。家にいなさすぎだったと思う。今からでも遅くはない。じっくりと夫婦の生活を営んでいけばと考える。

 そんななか義江に、東京の友人がオペラ出演の話を持ちかけてきた。

 演目は『お蝶夫人』で、進駐軍のための舞台だという。意外にも義江はこの話を断った。

「つい先頃まで米英撃減の歌を歌いまくったものに、いま、米国海軍中尉の軍服を着せ、星条旗の下でアメリカ万才を歌えと云う、この180度転換した企画には只々不思議に思えるばかりだった」

 と述懐している。

 年の瀬が近づいてくると、「近衛文麿死去」の一報が飛び込んできた。青酸カリの服毒死だという。あき夫妻にとっては、隣人の死を受け入れ難く、未亡人となった千代夫人のことを思うとあまりに衝撃が強すぎる事件だった。

 義江は重い腰をようやく上げつつあった。

 終戦の年の大晦日、NHKラジオ第一で「紅白音楽試合」という番組に出演することを承諾した。夜の10時半から除夜の鐘のなる0時までの放送だ。

 義江は久しぶりの東京が楽しみでしかたなくなった。

 楽し都 恋の都 夢のパラダイスよ 花の東京

 後輩の歌を小さく口ずさんでみる。やはり東京は恋の街だ。おしゃれをした男と女がいてレストランの重い扉を開け、2人グラスをかたむける。東京が恋しいという気持ちが急速に高まる。

 今年の3月の真夜中にやられた東京大空襲のあとから半年ぶりの東京だった。

 改めて焼け野原となった東京を目にして、失った人や物の大きさに落胆した。我が物顔で闊歩する自分と同じような顔立ちのGIと呼ばれるアメリカ将校たちの姿に、時代が確実に変わったことを感じ取った。

「紅白音楽試合」は日比谷のNHK東京放送会館から放送された。紅組、白組に別れて歌や音楽を披露するという、のちの「紅白歌合戦」につながる番組となっていく。

 義江は『出船の港』を披露した。同じ歌劇団の下八川圭祐も出演しているというのに、芸人や流行歌手や若い女優に囲まれて、終始ここは自分の場所ではないという気持ちでいっぱいになった。

 番組終了後、義江は帝国ホテルに飛びこみ、鎌倉山の家に電話をした。

「おめでとうございます。よかったわね、久しぶりのお歌なのに高い声が出てましたわよ」

「いや、俺は放送なんて嫌いだね。狭いスタジオで、観客がいないのは苦手だよ。オペラをそのまま流してくれる戦前の放送はありがたかったが、『出船』ではな」

「それが多くの人に喜ばれるのよ」

 宿泊した帝国ホテルは何ひとつ変わらない戦争前と同じ対応で、いや、むしろ感動に溢れ義江を両手を広げて迎えてくれた。食糧難というのにグリルでの食事はそれなりに贅を尽くしたものだった。

 たったひとつ変わっていたのは、大倉喜七郎から犬丸徹三に会長が変わっていたことだった。GHQの指令により財閥の大倉はすべての公職から離れることになった。財閥解体という指令が義江の活動にも大いに影響があるということがわかるのは、もう少し後になってからだ。

 義江は糊の効いた真っ白いシーツに大の字になって、色々なことを考える。

「働き盛り、男盛りの時をすべて戦争がめちゃくちゃにしていったのかもしれんな」

 久しぶりの東京、久しぶりに歌った興奮からなかなか寝つかれなかった。

「紅白音楽試合」の影響なのか、正月早々というのに東宝から義江に仕事の話が持ちかけられた。

 戦前に帝劇(帝国劇場)を買い取っていた東宝が、GHQに接収されている部分を解放しオペラ公演を行うというのだ。

 歌舞伎座も焼けてしまった今、もとはと言えば西洋の音楽を上演するために建設された帝劇で再びオペラができるというのは願ったり叶ったりのことだ。

 早速義江は鎌倉山から帝劇にやってきて、小さな火鉢を囲んで帝劇側と1つ1つ決めていった。

 演目は『椿姫』に決まった。

 一番の不安は、終戦から半年もたっていないという状況で果たして客は来てくれるのかということである。

 しかしやると決めたからには突き進むしかない。

 義江と歌劇団のマネージャー吉田は、団員たちに次々と声をかけた。

 ヴィオレッタ役は大谷淑子。

 オペラ歌手というのに以前よりもずっと痩せていて、食糧難の現状を思い知らされる。

 昭和21(1946)年1月20日、初演の幕が開いた。

 暖房などはもちろんなく、観客は毛布持参で、外套は着たまま手袋ははめたまま。演じる方も寒さからくる震えで歯がカチカチと鳴り、風邪をひいたり喉をやられたりした。女性たちは肌の露出の高いドレスが衣装なので気の毒になるくらいだった。

 それでも、文化的なものに飢えていた観客たちは大いに湧いた。

「これからもオペラを観ることができる世の中でありますように」

 皆それぞれの思いを込めて拍手を送った。

 10日間の公演を終え、客席がほぼ埋まったことに義江もあきも気を良くし自信がついた。この公演の成功で、東宝はオペラに本腰を入れていくという。

 鎌倉山にて夫婦で自給自足の未来を思い描いていたあきだったが、夫はこの公演によって完全に立ち直っていった。

 あきは夫が仕事に、つまり芸術に再び邁進していく熱量の高い様を見て誇らしかった。

 義江は戦争によって失われた芸術、つまりさまざまな女性との関係を取り返すことに貪欲になっていくのであった。(つづく)

佐野美和

最終更新:8/4(日) 12:00
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