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明治日本の産業革命

8/7(水) 15:16配信

nippon.com

河合 敦

明治維新以降、急速な近代化を進めた日本。わずか20数年で鉄道や電話、郵便といったインフラを整備し、綿糸や生糸の大量生産・大量輸出を始めるなど、産業革命が起こった。短期間にここまで発展できたのは、江戸時代に育まれた高度な技術力があったからだ。

政府主導による近代国家政策

明治政府の木戸孝允や大久保利通らは、明治4年(1871年)、政府が瓦解するのを覚悟して廃藩置県を断行した。当時は地方分権型社会で、270もの藩(大名家)がそれぞれ軍事力をもって政治を担っていた。それを一気に解体させたわけで、ある意味クーデターだった。木戸らは明治政府が唯一の政治権力となって、早急に近代的な国家を造らねばならないと決意したのである。

政府高官たちが一番恐れたのは、日本が列強諸国の植民地に転落することだった。事実、インドや東南アジアは植民地化され、中国もアヘン戦争に敗れて香港を英国に奪われていた。故に、日本のような小国が独立国家であり続けるためには、政府の主導によってできるだけ短期間に近代国家へ転身して経済的に豊かになり、その経済力で軍事力を強化し、列強の侵略から国を守る必要があると考えたのだ。

だから廃藩置県のわずか数カ月後に、明治政府は高官の多くを長期間欧米へ派遣した。これが岩倉具視を団長とする岩倉使節団である。このとき津田梅子(満6歳)を含む多くの留学生も参加。のちに帰国した彼らは、日本の近代化に大きく貢献することになった。

電話、郵便、鉄道と相次ぐインフラ整備

政府はまた、殖産興業政策に力を注いでいった。国内にさまざまな近代産業を移植し、早く日本を欧米のような資本主義国家にしようという政策だ。

まず関所や宿駅、株仲間(同業者組織)を廃止するなど、近代産業の育成を妨げる封建的制度を取り除いた。その上でインフラの整備を進めた。明治2年(1869年)には東京・横浜間に電信線が架設されたが、わずか5年後には、長崎から北海道にまで電信線は延び、やがて長崎と上海の間にも海底電線が敷かれている。明治4年(1871年)には飛脚制度に代わって郵便制度が始まり、各地に郵便局が生まれ、全国均一料金制がしかれ郵便切手・郵便はがきも販売されるようになった。明治10年(1877年)には万国郵便連合条約に加盟した。ちなみに同じ年には電話が初めて日本に輸入されている。

明治5年(1872年)、日本初の鉄道が東京・横浜間で開通した。鉄道建設の資金は英国からの外債に頼り、工事を指導した技師長エドモンド・モレルも英国人で、汽車も英国製の車両というように、かなり英国の力に依存したが、鉄道はその後、明治7年(1874年)に神戸・大阪間、明治10年(1877年)に京都・大阪間が開通。明治中期には、急速に鉄道網が全国に拡大していった。また政府は、全国の主要道路の改修にも力をいれ、荷車などでの輸送がスムーズにいくようにした。

海上交通については、前回の記事で書いたように、民間企業の三菱(海運会社)に手厚い保護を与え、欧米の汽船会社に対抗させた。政府はこのように、特定の民間企業や商人(政商)に特権を与えて、近代産業の育成を図った。政商としては三菱のほか、三井、小野などが有名だ。

政府はまた、軽工業分野や農業分野で、民間の手本となる国営の工場(官営模範工場)を多く設置し、民間産業の発達を促した。軽工業分野では、品川硝子製造所、愛知紡績所、深川工作分局(セメント製造)、札幌麦酒醸造所などがつくられたが、特に有名なのが、世界遺産となっている群馬県の富岡製糸場だろう。明治5年(1872年)に創設されたこの製糸工場には、フランスから輸入された300台の最新式製糸機械が設置され、フランス人ポール・ブリューナと4人のフランス人女工(女性工員)らが技術者として招かれた。この工場で製糸訓練をうけた日本の女工たちは、各地の製糸工場で後輩たちの技術指導に当たった。

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最終更新:8/7(水) 15:16
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