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明治日本の産業革命

8/7(水) 15:16配信

nippon.com

産業革命から資本主義国家へ

鉄道や富岡製糸場の例から分かる通り、殖産興業政策に大きく貢献したのが、お雇い外国人の存在であった。日本政府に雇用された欧米の技術者や学者のリードによって、近代産業は育っていったのである。お雇い外国人は延べ3000人ほどで、ピークの明治9年(1876年)には500人以上が来日している。いずれも極めて有能だったが、そうした人材を招聘(しょうへい)できたのは、高い給料を支払ったからである。例えば、トーマス・キンダーというお雇い外国人には月額1045円と、政府の太政大臣・三条実美の月額800円を超える報酬が支払われている。そうまでして欧米の技術者や学者を招いたということでも、政府の殖産興業に対する並々ならぬ情熱や熱意がうかがえる。

殖産興業政策の一環として、内務省が主催したものに内国勧業博覧会がある。明治10年(1877年)に上野公園で1回目が開催され、以後、明治36年(1903年)まで5回開かれた。これは海外で行われる万国博覧会をヒントにしたイベントで、近代産業や貿易の発達のために役立つだろうと始められたもの。第1回は、農業、園芸、機械など6分野に分けて84000点の物品が陳列され、102日間の会期中に45万人という大人数が参観にくる盛況ぶりをみせた。この内国勧業博覧会は、日本産業の近代化に多大な貢献をした。

1880年代前半、大蔵卿(大臣)の松方正義はデフレ政策を進めた。このため農産物の価格が暴落して多くの農民が没落した。だが、一部の豪農は没落農民から土地を安く買いたたいて寄生地主になったり、高利貸を営んで大もうけをした。こうした豪農や豊かな都市の商人たちは、もうけた金で株の売買を始めたり、会社を興したりした。そのため、株式取引が活発になり、続々と新しい会社が誕生した。特に明治19年(1886年)からの3年間は、会社設立ブームとなった。 

中でも活況を呈したのは、紡績業や製糸業など軽工業分野だった。民間の大阪紡績会社は、最新の英国製のミュール紡績機をたくさん導入し、蒸気機関によって機械を動かす大規模な機械性生産を展開。従業員は昼夜2交代制で、24時間紡績機を動かした結果、毎日大量の綿糸生産に成功。なおかつ、労働者は松方デフレで没落した農民の子女を低賃金(給料)で雇い長時間労働させた。このため極めて安価な綿糸が生産された。この成功を見て、多くの紡績会社や製糸会社がつくられた。結果、綿糸や生糸の大量生産・大量輸出が始まり、明治時代半ば、軽工業分野で産業革命が起こった。こうしてわずか20数年で、日本は資本主義国家となったのである。

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最終更新:8/7(水) 15:16
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