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彼女がみんな持っていってしまった───小説『空と海のあわいに』第2話

8/9(金) 21:43配信

GQ JAPAN

甘糟りり子の連載小説。東京に住む29歳・大輔は突然、妻から別れを切り出され、途方にくれた──毎週金曜日に更新!

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なにもない

二十畳のリビングに八畳のベッドルーム、四畳半の物置、それから地下のトランクルーム。ふたりで住んでいた66平米の部屋が、ひとりになると倍以上に広く感じられる。無駄に広い空間で無意味に生きている、大輔はそう思った。

ベッドは礼美(れいみ)が持っていったが、ソファはかろうじてこの部屋に残った。他にあるのは、本棚、46インチのTV、旧型のルンバ、及源(おいげん)のフライパンに最低限の食器、それぐらい。テンピュールのベッド、アンティークの姿見、セルジュ・ムールのライト、バング&オルフセンのスピーカー、みんなみんな無くなった。清水買いをしたユーロカーヴのワインセラーもヴァイタミックスのミキサーも彼女が持っていった。ほとんど礼美が自分で買ったものだから当然ではあるのだけれど。

家具と一緒にまともな生活が消えてしまった。

ソファが今の寝床だった。カラフルなこのソファが部屋をなんとかぎりぎりで殺風景にせずにいてくれた。

大輔が友達の家で一目惚れしたものだった。家具はなんだかんだと能書きをいうより使い勝手を優先するべきだと思っていたのに、青、赤、緑、黄色、さまざまな色をまとった布のパッチワークでできた奇妙なソファに心を奪われ、友人が引っ越すタイミングで譲り受けた。結婚するからもうこういう家具は要らないとかで、ほとんどただ同然だった。ロッシュ・ボボアというフランス人のデザイナーの名前は自分のものになる時に知った。かつて、その友達の冷蔵庫にはビールしか入っていなく、リビングリームの真ん中にパイオニアのミキサーがあった。そんな生活をしていた男が、結婚と同時に自分の個性をぱたぱたと畳んでいくのが不思議だった。

自分は結婚のために何を畳んだのだろうか。それとも畳んでいなかったから、こんなことになったのか。わずか2年と1カ月の短い結婚生活だった。

2カ月前に仕事をやめてから一日のリズムがあいまいな毎日だったが、離婚してから昼と夜の境目も夜と朝の境目もますますあやふやになった。

食生活もひどい。ひとりになったとたん、どうしてこんなに食事が雑になるのだろう。カレーを作れば何日もカレーを食べ続け、作るのが面倒になるとウーバーイーツであれこれ頼み、それも飽きると食べることがおっくうになった。生き延びるための餌、もしくはそれ以下だ。

気がつくと、礼美にいわれた言葉を心の中で繰り返している。

「そのうちダイの無邪気なところを愛おしく思ってくれる人がきっと現れるってば。私もそんなふうに礼儀正しく自由を装えるようになりたいな」

部屋の鍵をテーブルに置きながら、そんなことをいった。

無邪気、礼儀正しい、自由、そのすべてが自分のダメなところなんだろう。薄暗い部屋の白い壁を見つめながら、それらの言葉を、無神経、よそよそしい、自分勝手、と変換してみた。

そんな大輔を数少ない友人たちが心配した。LINEを未読スルーのままにしていたら、電話がかかってきた。電話の着信音を久しぶりに聞いた気がする。礼美が出ていってから耳に薄い膜が張り付いたようにいろんな音が自分とは無関係なところで鳴っていた。その膜を破って着信音が心に届いたのだった。

ウーバーイーツを頼むのさえめんどうくさいというと、強引に外に連れ出してくれた。

明治通り沿いの脇道にその店はあった。こぢんまりした中華料理の店だ。店内にはちょっと前まで自分が慣れ親しんでいた空気が流れていた。声と声が出会って弾けるような喧騒、身体の内側を挑発してくるようなスパイスの香り、どんな夜を過ごしても朝になれば下ろしたての一日が始まる、そう信じ切っている人々の表情。何もかもがなつかしい。

Uの字の形をしたカウンターの隅っこに男子三人で座る。ひとりはかつてのロッシュ・ボボアのソファの所有者で、もうひとりは会社員のかたわら、週末はクラブのVJをしている独身の真守(まもる)。彼が 「絶対、うまいから」とこの店を選んだ。Coyacoyaという変わった名前は、店主の名前に由来するそうだ。

ふたりとも、大輔の近況には触れないよう、慎重に会話を進めていく。共通の知り合いのちょっとした噂話、プロ野球とサッカー・プレミアリーグの話、仮想通貨の話……。

ビールを飲むと、久しぶりに「食欲」という言葉を思い出した。中華料理なのにポテトサラダが出てくる。それを食べると、やっと「お腹が空く」という感覚が戻ってきた。他には、千切りの干豆腐、春巻きに餃子、よだれ鶏、次々と皿が空になっていく。ビールを飲み干した後、ヴァン・ナチュールのボトルを開けた。隣には薄暗い中でも艶がわかるほどの美しい黒髪を胸の下まで伸ばした女の子と袖の膨らんだ黒いブラウスにシルバーのアクセサリーをたくさんつけた女の子がいて、皿が出てくる度に熱心にiPhoneでそれを撮った。いろいろな角度を試している。そうやって、この夜が記録されていくのだ。

何皿目だったか忘れたが、トリッパが出てきた。そろそろ「食べる」より「飲む」ほうが楽しくなっていて、少しだけつまんでからワインを口に含んだ。元ソファの所有者が最近気に入っているワインについてあれこれと話し始め、真守がさえぎるようにたずねた。

「このトリッパの特徴、わかる?」

「え、何?」

「カルダモンが入っているんだ」

そういってからもう一度トリッパに箸を伸ばした。大輔はぼんやりとそのやりとりを聞いていた。気がつくと、ふたりが怪訝そうな表情でこちらをのぞき込んでいる。

「おい、大丈夫かよ?」

「え?」

気がつくと、大輔は泣いていた。

PROFILE
甘糟りり子

1964年、神奈川県生まれ。作家。大学卒業後、アパレルメーカー勤務を経て執筆活動を開始。小説のほか、ファッション、映画などのエッセイを綴る。著書は『産まなくても、産めなくても』『鎌倉の家』など。

文・甘糟りり子

最終更新:8/9(金) 21:43
GQ JAPAN

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