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あいちトリエンナーレ2019にて――ミロ・ラウと平和の少女像と弓指寛治

8/14(水) 8:10配信

otocoto

8月1日の開幕と同時に話題騒然のあいちトリエンナーレ。2日目にミロ・ラウ(IIPM)+CAMPOの『5つのやさしい小品』を、3日目に『表現の不自由展・その後』や弓指寛治『輝けるこども』を観て感じたことなど。

この連載コラムでも何度か触れているミロ・ラウの舞台を観ることを主な目的に、8月2日から3日にかけて、あいちトリエンナーレに行ってきた。

2016年に初演され、大きな反響とともに世界各地で上演を続けている『5つのやさしい小品』(コンセプト・テキスト・演出/ミロ・ラウ)は、’90年代にベルギー中を震撼させた少女監禁殺害事件を題材に、被害者とほぼ同年代のベルギーの子どもたちの出演によって、事件とその背景を舞台上で再構成する、というもの。こうした、実際に起きた事件について詳細なリサーチを行い、独自の方法で舞台上に再現するというスタイルは、ラウが行うさまざまな表現形式の中で、たぶんもっともよく知られものだ。

ラウによれば、この事件――犯人の名前からマルク・デュトルー事件と呼ばれる――はショッキングな監禁殺人であるだけでなく、「デュトルーという人物を通じて、ベルギー史を語ることができる」(当日パンフ掲載のラウへのインタビュー)ほど、ベルギー国民にとって重要な問題を内包しているとのこと。

ただ、その国情を包括的に理解しているとは言いがたい極東の一観客としては、複数の少女が監禁・レイプ・殺害された事実と、その少女たちや小児性愛者の犯人役を「子どもに演じさせる」という行為があまりに衝撃的なため、観劇にあたり、意識のほとんどはその点に向かった。

オーディションで選ばれた7名の子どもたちが、唯一成人の出演者である演出家役の俳優の指示のもと、犯人デュトルーとその父親、被害者、その両親、警察官らの関係者を演じてゆく。彼らにはムービーカメラが向けられており、観客は、それを映し出す舞台上のスクリーン映像を含めた撮影現場全体の様子を見守る、という構造。さらに、スクリーンには、舞台で子どもたちが演じるのと同じシーンを、大人の俳優が演じる映像が映し出されることもある。

かなり重層的でこんがらがってくる。つまり、
1.実際に起きたデュトルー事件を前提に、
2.デュトルー事件の背景を追った映像作品(大人の俳優が演じる)と、
3.デュトルー事件の背景を追った舞台作品(子どもたちがライブで演じる)が展開し、3の中では、デュトルーによる監禁・レイプについて証言する少女を演じる子どもと、演技指導をしながら彼女に服を脱ぐよう指示する演出家の姿が描かれ、それを凝視する観客を含めたセカンドレイプ状態が、舞台上に現出する。これらのことからラウは、
4.大人が子どもを使って演劇を上演するという構造自体が、弱い者を暴力で支配するデュトルーの行為に重なるという事実
を自覚的に提示する。さらにこれを突きつめれば、俳優と演出家の関係にも重なるし、ひいては「演技する」という行為について考えることにもなり、最終的には
5.演劇とは何か
との命題にまで行き着く。

「子どもと演劇を創る」という機会をベルギーのゲントにあるアーツセンターCAMPOから与えられたミロ・ラウは、ひとりの小児性愛者が起こした事件から出発して、(ベルギーという国家の持つ膿を可視化し、さらに)演劇の本質について考えるところまでを、少なくとも5層にわたって複合的に描いて見せた、ということになる。

こうした大人の思惑とはべつに、さまざまな追体験にさらされる子どもたちのことが心配になるが、終演後のポストトークで演出家役のペーテル・セイナーフ氏が語ったところでは、6か月にわたる稽古には、子どもたちのケアにあたる心理学者も定期的に参加したが、子どもたちは各状況をゲームのように楽しんでいて、心理学者の出番はほとんどなかったという。リスクのあるプロジェクトではあったが、ベルギー国民が抱えるトラウマを、過去を知らない子どもたちが演じることで、未来の方向へと変換できたのではないかと思う――といった内容のセイナーフ氏の理想的な話に、即座にはついて行けないものがあったけれど、少なくとも、現代社会を案じ、問題提起を行うアーティストとして、ミロ・ラウの着眼点と行動力の大胆さ、知的仕掛けの綿密さと冷静さ、芸術表現としての質の高さには、感服してあまりあるものがあった。

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最終更新:8/14(水) 8:10
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