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第二次世界大戦が生んだ「オオカミの子どもたち」 苦難の人生

8/15(木) 16:32配信

ナショナル ジオグラフィック日本版

 第二次世界大戦終結後、親を失った多くの子どもたちが、戦後の混乱期を自力で生き抜かなければならなかった。かつてナチス・ドイツが支配していた東プロイセンでも、親と離れ離れになったドイツ人の子どもたちが、社会から見捨てられ、まるで腹を空かせたオオカミのようにさまよい、森のなかで生き延びていた。彼らはやがて「オオカミの子どもたち」と呼ばれるようになった。

ギャラリー:第二次世界大戦が生んだ「オオカミの子どもたち」苦難の人生 写真12点

 米ウィスコンシン大学の歴史学教授ミシェル・モウトン博士は、終戦直後の地政学的政策決定に関して、英国労働党が1944年に発表した声明文を引用し、次のように説明する。声明文のなかで労働党は「終戦直後、被占領国においてはドイツ人に対する根深い憎悪」が懸念されるため、ドイツ人は「移住するか大量虐殺されるか」のいずれかの選択を迫られるだろう、との考えを明らかにしていた。少なくとも建前上は「連合国側は大量虐殺を望まなかったため、移住することで合意した」という。

 こうして、東プロイセンではドイツ人の追い出しが始まったが、それによって生じた混乱で家族は離れ離れになり、子どもたちのその後の運命は大きく変えられてゆく。ソビエトの孤児院へ送られた子もいれば、隣国のリトアニアへ逃げ延びた子、東西に分割されたドイツへたどり着いた子もいた。数えきれないほどの子どもたちが、その後不慣れな土地への同化を強いられながら成長することとなる。こうした行き先は、子どもたちにとって必ずしも寛容な環境ばかりではなかった。

 リトアニアへ逃げた「オオカミの子どもたち」は、一番多感な時期に、自己意識を形成するのに重要な、言語、家族、住む場所を奪われた経験を持つ。そして、最低限の教育しか受けられず、過酷な状況の下で働き、社会から隠れるように暮らしてきた。手を差し伸べてくれるリトアニア人もいたが、そうした支援すら、ある日突然途絶えてしまうことがあった。リトアニアは当時、ソビエトの支配下にあり、政治や社会からナチスの影響を徹底的に排除し、ドイツ人の連帯責任を追及するソ連の政策に追従していた。ドイツ人の子どもたちは、かつて自分たちを優遇するために設計された体制の崩壊によって、まったく逆の立場に置かれることになった。

 写真家のルーカス・クライビッヒ氏は「オオカミの子どもたち」について最初にどこで読んだのか記憶していないが、彼らの知られざる物語は、同氏の心に強烈な印象を残した。デンマーク・メディア・ジャーナリズム学校で学んでいたクライビッヒ氏は、2017年に始めた写真プロジェクトを通して、東プロイセンの子どもたちのその後をもっと知りたいと思った。調べていくうちに、オオカミの子どもたちに関する本を出版した写真家のクラウディア・ヘイネルマン氏に出会った。ふたりは、ルイーズという名の元オオカミの子どもの協力を得て、他のオオカミの子どもたちを紹介してもらった。そして、ふたつの別々のプロジェクトをスタートさせた。クライビッヒ氏はプロジェクトが2本進行することに関して「彼らの物語と人生が様々な形で伝えられれば、より多くの人々に知ってもらえます」と語る。

 悲惨な戦争の最後の目撃者である子どもたちのことをぜひとも伝えたい、と強く感じたクライビッヒ氏は、歴史の陰に隠されていたオオカミの子どもたちの老いゆく姿を、素顔のまま撮影することにした。

 リトアニア南部ののどかな田舎町で、クライビッヒ氏が最初に話を聞いたのは、ギゼラさんという女性だった。1945年、14歳だったギゼラさんは祖母が目の前で餓死するのを見て、ソ連軍による「死の行進」から逃げ出した。いったんは東プロイセンのケーニヒスベルクへ戻ったが、より良いチャンスが待っているとのうわさを頼りに、リトアニアへ向かった。リトアニア語を習得し、ソビエトの集団農場「コルホーズ」で働いている時に夫と出会い、一男一女をもうけた。そこでの生活と労働はつらい経験だった。当時のことは忘れてしまいたいが忘れられないと、ギゼラさんはリトアニア語で語る。「記憶は、傷跡のように残るものですから」

 一方、喜ばしい出来事もあった。家族と生き別れてから20年後、母と弟が生きていると、ドイツの赤十字から連絡を受けた。そして1961年に、母親からドイツ語で書かれた手紙を受け取った。「ギゼラちゃん、あなたがまだ生きていると知って、しかも手紙を送ることができて、とてもうれしいわ。本当に久しぶりね。あなたの弟のディーターも私も元気でやっているわ」

 だが、政府に密告されるのではという不安が常に付きまとい、ギゼラさんは最も親しい人にしか、ドイツ人であることを明かせなかった。

 クライビッヒ氏は他にも、東プロイセンの子どもたち、エルナさん、ラインハルトさん、エルフリードさんを取材した。過去から現在までの家族写真や文書で彼らの歩んだ人生をたどり、子ども時代、そして現在の姿を伝える。クライビッヒ氏の出会った人の多くが、ドイツからもリトアニアからも自分自身を完全に切り離すことはできないと感じていた。どちらの国も比較的最近まで、彼らの存在を完全には認めてこなかったのだ。リトアニアは現在「オオカミの子どもたち」へ少額の恩給を支給している。ドイツも手続きは複雑だが、ある程度の補助金を支給し、議会が意見を受け付ける仕組みになっている。

 歴史を記述するとき、子どもたちの証言が取り上げられることはまずない。そのため、ギゼラさんをはじめとするこうした子どもたちは、長い間、歴史書で触れられることはなかった。子どもたちはなぜ戦後の対話のなかで放置されてきたのか。そしてなぜ最近になってようやくその存在が認められるようになったのか。

 終戦直後、一部のドイツ人は、戦争中のドイツによる残虐行為の責任を逃れるため、ドイツ人も犠牲を払ったことや、打倒ファシズムを掲げたソビエトの脅威を強調しようとした。このころの記憶や回想は、驚くほど選択的だった。今では考えられないことだが、ホロコーストのような第二次世界大戦の恐ろしい記憶は、ほとんど語られることがなかった。

 カナダにあるヨーク大学ドイツ学術交流会客員教授のジェニー・ウステンベルク博士は、ソ連占領下にあった東ドイツでは「ソ連軍は解放者として英雄扱いされていましたから、そのソ連軍による残虐行為については全く語られていませんでした」と説明する。一方西ドイツでは、戦争の記憶と言えばドイツ人が味わった苦難が話題の中心だったという。

 しかしその後、学生運動が盛んになり「記憶」に関する政府の管理体制が緩むと、戦争記憶を見直そうという動きがヨーロッパ中に広がった。特に西ドイツでは、戦後ドイツ人に起こったことを詳細に語るのは「ナチスによる行為を矮小化し、その犠牲者の苦しみとドイツ人の苦しみとを同等とみなす誤った考えを植え付ける」と広く理解された。こうして、オオカミの子どもたちをめぐる議論も“子どもを使ってナチズムを正当化し、ドイツ人も戦争で散々苦しめられたのだと主張する極右修正主義者の領域”へと追いやられてしまった。

 1989年のベルリンの壁崩壊と、その後のソビエト連邦崩壊により、コミュニケーションの自由が広がったことで、人々はさらにオープンに、感情的な目で自分たちの歴史を見つめるようになった。クライビッヒ氏の祖国ドイツでも、東プロイセンの子どもたちの物語が以前よりも知られるようになったと語る。

 戦争の傷跡は社会に深く残り、世代を超えて受け継がれていくが、他の全ての負の遺産と同様、時が経てば歴史に葬り去られた事実と向き合えるようになる。クライビッヒ氏は「この戦争が引き起こした死と痛み、物語」を記憶しておくことは重要だと考えた。

 同氏のこのプロジェクトは、戦争が子どもたちに与える影響と、自分が何者であるかという意識や歴史が築かれていく過程について考えさせてくれるだろう。 そして同時に、歴史の記録を追加し、意見を形成・変化させ、集団の過去を批判的に見るという「写真の力」を改めて示している。

文=Gail letcher/訳=ルーバー荒井ハンナ

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