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帝国主義時代にアフリカで唯一独立を維持したエチオピア帝国とイタリアとの戦争、そして日本とのかかわりとは?【橘玲の世界投資見聞録】

8/15(木) 17:00配信

ダイヤモンド・ザイ

 エチオピアが興味深いのは、そこが「(一般に思われているような)アフリカ」ではなく、古代地中海世界の周縁だからだ。19世紀から20世紀初頭にかけて、アフリカのほぼ全域がヨーロッパ列強の植民地となってからも、エチオピアは唯一、独立を維持してきた(リベリアも黒人国家として独立を認められていたが、外国資本によって支配されていた)。

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 このため、ケニア独立運動の父ジョモ・ケニアッタが「全世界のアフリカ人とニグロに唯一残された誇り」と述べたように、エチオピアは黒人の「希望」でありつづけた(「ニグロ」は現在は差別語とされているが、第二次世界大戦以前は「アフリカ以外に住む黒人」の意味で使われた)。

 アメリカにおいてエチオピア主義とアフリカ帰還運動を主導したのがジャマイカ出身のマーカス・ガーヴェイで、そこからエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ(ラス・タファリ)を神と見なす黒人宗教が生まれ、ボブ・マーリーなどのレゲエ・ミュージシャンによって「布教」された。

 [参考記事]
●カリブ海に生まれた「ラスタファリズム」という黒人宗教とボブ・マーリー、レゲエミュージックの数奇な歴史

 今回は、エチオピアとイタリアの戦争をもとに、この魅力的な国の現代史を紹介してみたい。なお、以下の記述は石田憲『ファシストの歴史 世界史的文脈で読むエチオピア戦争』(千倉書房)、山崎雅弘『歴史ノート エチオピア戦争 第二次世界大戦前、イタリアの政治的・経済的混迷が生んだ侵略』(六角堂出版)、長島信弘「アルヴァレス『エチオピア王国誌』解説」(岩波書店)にもとづいている。

「有色人種がはじめて白人国家に勝った」のは日本ではなくエチオピア
 日本では、1904年の日露戦争で「有色人種がはじめて白人国家に勝った」と思われているが、これは正しくない。その8年ほど前、1896年に戦われたエチオピア帝国とイタリア王国との戦争(第一次エチオピア戦争)で、エチオピアの軍隊はイタリア陸軍を完膚なきまでに打ち破っている。だから日露戦争は、「アジアの国がはじめて白人国家に勝った」戦争ということになる。

 エチオピアの「戦国時代(諸侯の時代)」は1769~1855年で、各地に勃興した「王」たちが覇を競った。この混乱を平定したのがカッサで、下級官の家に生まれ、少年期を修道院で過ごし、エチオピア正教とエチオピア文学に傾倒した。類まれな才能によって山賊の首領から勢力を拡大し、1855年にエチオピア全土を掌握すると、「(エチオピア正教と対立していた)カトリック勢力を一掃する」という約束で正教の大司教を味方につけ、皇帝としての塗油を受けてテオドロス帝を名乗った。

 テオドロスは「謙虚さと思いやり、激怒と暴虐」という両極端の性格を合わせもち、即位後は任命知事制、奴隷貿易の廃止、一夫多妻婚の禁止、職業軍人の制度化、教会の権力と財産の削減などの理想主義的な改革をたてつづけに行なったが、やがて孤立し誇大妄想にかれるようになる。1864年、テオドロスはイギリスのヴィクトリア女王への親書に対して2年間返事がなかったことを理由に領事以下60人以上のイギリス人を投獄し、救出に来た使節も幽閉してしまった。

 これに対してイギリスは3万2000の大軍をエチオピアに派遣し、テオドロスと敵対する諸侯が無抵抗で進軍を許したため、皇帝とその直属軍だけが1868年に決戦を挑んだが大敗し、テオドロスは自殺した。

 一方、国土統一に手間取って植民地獲得競争に出遅れたイタリアは、事実上の植民地としていた紅海南部のエリトリアを拠点に、「空白地帯」だった北部エチオピアに進出する機会をうかがっていた。

 テオドロスの死後、エチオピアでは帝位の継承をめぐって争いがつづいたが、北部のティグレ族出身のヨハンネス帝が1872年に即位する。イスラーム勢力とイタリアの挑発・侵略に苦慮していたヨハンネスは、後継者に指名したメネリクに南方経営を任せ、自らは先頭に立って戦場に向かった。

 1875年、ヨハンネスの軍はエチオピア征服を企てて南下してきたエジプト軍を全滅させ、1887年にはエリトリアから高地に進んだイタリア軍が領主ラス・アルラの軍に大敗を喫した。ヨハンネスはイタリアとの戦いをラス・アルラに任せ、自らは西方の脅威となりつつあったイスラーム勢力の制圧に向かうが、1889年、勝利を目前に敵の刃に倒れた。

 ここまでが、第一次エチオピア戦争の前史になる。

「野蛮人」が支配するエチオピアに「文明国」イタリアが完敗したという「歴史的敗戦」
 ヨハンネスの跡を継いだメネリク2世は、南部のショア国(アムハラ族)の出身で、イタリアが勢力拡張を狙う北部の防衛よりも南方征服に関心を向け、イタリアから武器の供与を受けていた。こうした経緯もあり、メネリクは即位後すぐにイタリアと条約を結び、エリトリアの割譲と引き換えにイタリアがひきつづきエチオピアを支援することとした。――ちなみに、このときのエリトリア割譲が現在に続くエチオピアとエリトリアの遺恨の原因となった。

 ところがこの条約にはイタリア語とアムハラ語(エチオピアの公用語)の2種類があり、イタリア語版にはエチオピアの主権を否定するかのような規定が紛れ込んでいた。イタリアはこの条項を盾に西欧列強にエチオピアへの宗主権(正確には発言権)があると説明し、条約で定められた境界線を越えて軍を進駐させた。

 この暴挙に対し、メネリクはイタリアに条約の無効を宣言し、大軍を率いて北上した。両国の戦争は不可避となった。

 じつはこのときまでに、メネリクはイタリアだけでなく、イギリス、フランス、ロシアなどからもライフル銃や機関銃、大砲、弾薬などの兵器を購入しており、近代化のさほど進んでいないイタリア軍と互角の兵力を備えていた。だがこうした実態はイタリア本国には伝えられておらず、戦況の膠着にいら立った首相は「(アフリカ人相手に苦戦することは)イタリアの威信を失墜させる」として、現地司令官に総攻撃を命じた。

 こうして1896年3月1日、古都アスクム近郊のアドワで10万のエチオピア軍と1万8000のイタリア軍が激突する。

 イタリア軍は数的劣勢を補うため夜明け前の奇襲を行なったが、エチオピア軍はそれを予想しており、たちまち反撃に転じるとイタリア軍は壊滅的損害を被って敗走した。

 この「アドワの戦い(第一次エチオピア戦争)」でエチオピア軍は1万7000人ちかい死者を出したが、イタリア軍の損害は全軍の8割を超える1万5000人に達した。

 「野蛮人」が支配するエチオピアに「文明国」イタリアが完敗したという「歴史的敗戦」により、イタリアは二流の帝国主義国に転落した。第一次世界大戦後の不況を背景にファシズムが勃興すると、この「国民的屈辱」に報復し、「帝国の復活」に向けてエチオピアを植民地化すべきだという世論が急速に高まっていった。

 貧困と過剰人口に苦しむ「貧者の帝国主義」イタリアにとって、植民地の拡張で「余分な」国民を移住させることは魅力的な経済政策だった。こうした事情は、イタリアと同じ後発の帝国主義国家で、過剰人口に悩まされていた日本が満州を侵略したのと重なっている。

 このようにして、「第二次エチオピア戦争(ファシストの戦争)」の条件が整った。

第二次エチオピア戦争はムッソリーニとハイレ・セラシアとの戦い
 国家ファシスト党を結党し、1925年にイタリア首相となったムッソリーニは、国内では愛国心を煽る一方、外交では英仏両大国との融和を重視し、1928年にはエチオピアと友好不可侵条約を締結した(エチオピアは1924年に国際連盟に加盟した)。

 ところが世界恐慌を機に失業率が急速に高まると、イタリア国民のあいだでは海外植民地の獲得を望む声が湧き起こった。

 1930年時点で、イタリアはリビアとエリトリア、インド洋に面した(伊領)ソマリランドしか植民地がなく、いずれも国土の大半が不毛の砂漠地帯で入植など不可能だった。こうした状況で、イタリア国民の視線が「ゆたかな」エチオピアに向かうのは当然だった。

 そのエチオピアでは、メネリク2世の跡を17歳で継いだイヤス帝が、複数のムスリムの娘を妻にし、ソロモンの血統を否定して預言者ムハンマドからの血筋を主張し、大イスラーム帝国構想を口にするなど、国民の憤激を買う治世を行なっていた。そこで反国王派は、ラス・マコンネンの息子のタファリを押し立てて皇帝を退位させ、メネリク2世の娘であるザウディトゥを帝位につかせた。

 若干22歳で女帝の摂政となったタファリはフランス系ミッションで教育を受け、幼少時からその才能を高く評価されていた。タファリは内政では教育にちからを注ぎ、外交では国際連盟への加盟を実現させるなど、大きな成果をあげた。1930年、女帝が逝去するとライバルたちを征圧して38歳で帝位につき、ハイレ・セラシエを名乗った。

 第二次エチオピア戦争は、ムッソリーニとハイレ・セラシアのあいだで戦われることになる。

 エチオピアに歴史的勝利をもたらした「アドワの戦い」から半世紀を経て、両軍の軍事力には大きな開きが生まれていた。第一次世界大戦で「総力戦」を体験したイタリアは、航空機や戦車だけでなく毒ガス兵器まで保有していた。それに対してエチオピア軍には旧式の鉄砲を担いだ歩兵しかおらず、地方の軍閥の兵士の大半は弓や槍などしか持たなかった。

 1934年12月、エチオピア領の東部国境に近いワルワルというオアシスで両軍の武力衝突が発生し、エチオピアは国際連盟に調査を依頼した。翌35年9月、「偶発事件であり双方に責任なし」との裁定が下されたことで、ムッソリーニは「英仏両国の軍事介入はない」と判断し、エチオピアに対する本格的な軍事侵攻に踏み切った。開戦までのこうした経緯は、柳条湖事件への国際連盟への提訴を経て満州国建国へと至る満州事変とよく似ている。

 イタリア軍は「黒シャツ師団(ファシスト党の親衛隊)」を加えて約18万(うちイタリア兵は11万で残りがエリトリア兵)、機関銃、火砲、戦車などのほか戦闘機126機も投入された。

 軍事力で圧倒するイタリアの進軍を阻んだのは、エチオピア特有の険峻な地形と道路事情の悪さだった。10月9日には国際連盟の総会で、反対1、棄権3を除く50カ国がイタリアの行動を「加盟国に対する明白な侵略行為」と見なし、イタリアへの経済制裁が決議された。

 この決議によって戦争が長期化することを恐れたムッソリーニは短期決戦を命じ、イタリア軍は戦局打開のため、ジュネーヴ条約で禁止されたマスタードガスなどの毒ガス兵器を使用しはじめた。こうして1936年5月、首都アディスアベバは陥落し、ハイレ・セラシエはジブチ経由でイギリスへと亡命した。

 第二次世界大戦が始まると、イタリアはドイツの戦果を見て1940年6月にフランス、イギリスに宣戦布告、東アフリカでもイギリス領ソマリランドに侵攻した。だが11月にはイギリスは反撃に転じ、英仏両軍の攻撃によってソマリア、エリトリアを失ったのち、42年1月にアディスアベバから撤退。ハイレ・セラシアは5年半の亡命を経て故国に帰還した。

第二次エチオピア戦争はファシストたちのパフォーマンスの場になった
 第二次エチオピア戦争の特徴は、イタリアのファシストたちのパフォーマンスの場になったことだ。

 ファシスト党書記長のスタラーチェは、3400人の兵員と433台の車両からなる「機動縦隊」と称する自動車化部隊を率いてエチオピア北西部のゴンダールへと「叙事詩的行進」を行なったが、エチオピア側の将軍に賄賂を渡してあったためまったく抵抗はなく、軍事的にはなんの意味もなかった。

 スタラーチェは帰国後、『ゴンダール進軍』という書物を著し、「生死の境を生きる」ファシスト的英雄行為を体現したと自負した。1945年4月、パルチザンにつかまったスタラーチェは、自分は「帝国の大衆にサーカスを提供する役者」にすぎなかったと弁明したが、ムッソリーニ処刑の翌日、銃殺された。スタラーチェは撃たれた際、「ドゥーチェ(統領)万歳」と叫び、倒れてなおローマ式敬礼を試みたという。

 ムッソリーニの娘婿で、「遅れてきたファシスト」として新しいファシストらしさを誇示しなければならなかったチァーノは、自ら補助パイロットに志願して空軍大尉の任に就くや、お抱えの作家を連れてその武勲を謳いあげさせる露骨な宣伝活動に邁進していく。

 チァーノの所属した通称「絶望飛行中隊」はゲルニカ爆撃の先駆けとなる無差別爆撃に参加し、チァーノは「坐ったまま戦った」と冗談を飛ばした。チァーノにとって、安全な上空からエチオピア人を殺戮することはスポーツやイベント、すなわち「遊び」の類であり、「生死の境に生きる英雄的行動」に従事した自分の姿を演出する道具だった。その「英雄的行動」は本国で大々的に宣伝され、最高司令官から「真っ先に解任されるべき人物」として名前を挙げられる始末だった。

 1936年5月、陥落直後のアディスアベバを仲間とともに訪れ、記念撮影に興じたチァーノは、その翌月、ムッソリーニによって外相に抜擢され、ファシスト新世代の代表となった。その後イタリアは、チァーノの冒険的な膨張政策に引きずられるようにして破滅的な戦争へと突き進んでいく。

 敗戦の危機に直面したチァーノは一転してムッソリーニ解任動議に賛成し、ドイツ軍が幽閉中のムッソリーニを救出して傀儡にしてからは、ほかの賛同者とともにファシスト側の裁判を受け1944年11月に処刑された。

 ムッソリーの2人の息子であるヴィットーリオとブルーノも「戦争の中で自己実現を果たすファシスト新世代」として、「僕はライオン飛行中隊」に所属して赤十字への爆撃を敢行した。2人のあらゆる「英雄的行動」はファシストの格好の宣伝材料となり、彼らとチァーノのエチオピア戦争を描いたラテン語の詩は学校の教材になったという。

 ヴィットーリオは『高地上空の飛行隊』を著して「戦争は人を教育し、鍛える」というファシズム・イデオロギーの啓蒙に努め、戦争を「もっとも美しく完全なスポーツ」としてその「楽しさ」を全編にわたって綴った。彼は、「ガラ人の集団の真ん中に爆弾が落ちて、バラの花が咲くように人々が飛び散る」のに「大いなる快感」を覚えた。

 彼らが戦争をエンタテインメントにできたのは、相手が満足な武器をもたないエチオピア軍だったからだ。ファシズムの戦争賛美は、自分がかならず生き残るという保証のもとに「新しい世代」を創造しようとしたのだ。

エチオピア帝国と大日本帝国は「有色人種の兄弟帝国」とされたが日本側の同情は1年ももたず
 最後に石田憲氏の『ファシストの戦争』から、エチオピア戦争と日本のかかわりを紹介しておこう。

 エチオピア帝国と大日本帝国は「有色人種の兄弟帝国」とされ、エチオピア政府の親日姿勢もあって綿花栽培用に日本人の入植地をつくるという噂が絶えなかった。

 これに危機感を抱いたのがイタリアで、「日本はアフリカへの浸透を図り、アジア、アフリカの有色人種の巨大な運動を組織しようとしている」として「東京の黄色人種の隠された攻撃企図」が警告された。1934年には黒田子爵の娘、黒田雅子とハイレ・セラシアのはとこ、リジ・アヤラ・アベバとの婚姻が噂にのぼったが、これもイタリアの反対で破談にいたったとされる。

 日伊関係の悪化をうけて、1935年になると国家主義系右翼団体が反伊親エチオピア運動を始め、大日本ツラン青年同盟は理事をエチオピアに派遣し、国際的連帯を唱えるとともに、エチオピアにおける日本の権益擁護と有色人種への同情を表明した。また黒龍会の頭山満らが中心となって「エチオピア問題懇談会」が結成され、戦争勃発後は義援金、物資支援などの運動を行なった。

 日伊の世論が沸騰するなか、ムッソリーニは人種主義を極端に打ち出すことは英仏両国をはじめとする植民地保有国の不安をかきたてるとして過激な宣伝の宥和に努め、イタリア外務省も日本側に「アジア人とアフリカの未開人とは混同していない」と強調した。これに関してイギリス外務省は、日本帝国が「白人の抑圧下にある民族の頂点に立つところまで強大化する」危険性を懸念した。

 日本側では、1935年8月、重光葵外務次官が報告書で、「「有色民族の自決主義」を重視することで、日本の経済的伸長が「土人の解放」につながり、ひいては「有色人種の台頭」を促す」と論じた。

 第二次エチオピア戦争の開戦を機に日本における義勇兵志願者は増加し、在大阪エチオピア名誉領事館に提出された志願者名簿はわずか2カ月で182名に達した。だが、従軍志願者には渡航許可が認められなかったため、実際にエチオピアで戦った日本人はいなかったという。

 日本のエチオピアに対する判官びいきの同情は1年ほどしか続かず、1936年11月には、イタリアが満州国に領事館を設置した見返りに駐エチオピア日本公使館を領事館に格下げし、イタリアのエチオピア征服を公的に承認した。

 その後、日独伊三国同盟へと進んでいくのは、歴史の知るとおりである。

 橘 玲(たちばな あきら)

  作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)、『もっと言ってはいけない』(新潮新書) など。最新刊は『上級国民/下級国民』(小学館新書)。

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最終更新:8/16(金) 23:25
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