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大滝詠一とさくらももこ 平成2年の「おどるポンポコリン」(B.B.クィーンズ)【柴那典 平成ヒット曲史】

8/16(金) 7:00配信

Book Bang

平成とは、どのような時代だったのか――。
その手がかりを、各年を象徴する曲に探る「平成ヒット曲史」。
プロデューサーの時代、タイアップ全盛、「自分らしさ」、史上一番CDが売れた年……ヒット曲は諸行無常の調べ。音楽ジャーナリストが、ポップ・ミュージックを通して“平成”という時代に迫ります。
第2回は、B.B.クィーンズの「おどるポンポコリン」です。

【柴那典 平成ヒット曲史】第1回 昭和の幕を閉じた曲 平成元年の「川の流れのように」(美空ひばり)

植木等から受け継がれたバトン

「わかっちゃいるけど やめられねぇ」
 タキシードに蝶ネクタイを結び、大きく顔をほころばせた植木等が歌う。
「スイスイ スーダララッタ スラスラ スイスイスイ」
 ステージで膝を曲げて踊る植木等を囲むように、扇子を持った沢山の出演者たちが集まってくる。
 1990(平成2)年の紅白歌合戦の主役は、まぎれもなく植木等だった。この年、自身とクレージーキャッツの代表曲をメドレーにした『スーダラ伝説』をヒットさせた彼は、1967年以来、23年ぶりに歌手として紅白歌合戦に出演する。その時の視聴率は56.6%。歌手別の最高視聴率だ。
 白髪の好々爺となった植木等が、笑いながら「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」「そのうちなんとかなるだろう」と歌う。その姿からは、やがて平成という時代の中で失われていく、能天気さとあふれんばかりの多幸感が放たれていた。
 美空ひばりと同じく、植木等もまた、昭和という時代の象徴だった。
 生まれたのは、1926年12月25日。大正天皇が崩御し、昭和に改元された当日だ。浄土真宗の寺に生まれ育ち、戦後芸能史を支えるエンターテイナーやミュージシャンの多くと同じく戦後には進駐軍のクラブやジャズ喫茶で演奏していた植木等。ハナ肇とクレージーキャッツの一員として世に出た彼は、1961年に発売された『スーダラ節』の爆発的なヒットで一躍国民的スターの座に躍り出る。翌年公開された映画『ニッポン無責任時代』が、その人気を盤石にした。
 キャッチコピーは「日本一の無責任男」。俳優であり、コメディアンであり、歌手である彼が、どんな風に昭和という時代を象徴したのか。そして、その存在は、どう受け継がれたのか。
 そのことは、平成という時代を語る上で、とても大事なポイントになる。
 この「平成ヒット曲史」でも、SMAPを語るときに、また、星野源を語るときに、クレージーキャッツの名前は繰り返し登場する。

 昭和が終わり、平成が始まる。
 1990年はそういう年だった。この年、社会現象的なヒットとなったのが、アニメ『ちびまる子ちゃん』と、そのエンディングテーマであるB.Bクィーンズ「おどるポンポコリン」だ。
 作詞を手掛けたのは、『ちびまる子ちゃん』の作者、さくらももこ自身だ。
 彼女もまた、植木等から、クレージーキャッツからバトンを受け取った一人だった。
 さくらももこの自伝的作品である『ちびまる子ちゃん』のエピソードの一つに、テレビばかり見ているまる子に向かって、父・ヒロシが「いったい将来、何になるつもりだ?」と質問する場面がある。テレビを指して「クレージーキャッツに入りたい!」と答えたまる子にヒロシが「それは無理だ」と肩をすくめると、まる子は、「じゃあ、この歌を作った青島幸男さんみたいになりたいよ」と言う。
 青島幸男は「スーダラ節」を作詞し、さくらももこは「おどるポンポコリン」を書いた。
「ピーヒャラピーヒャラ パッパパラパ」
 意味のない、しかし、だからこそ強度のある言葉が、世を席巻した。
 さくらももこは、「青島幸男さんみたいに」なった。まる子は夢を叶えたのだ。

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最終更新:8/16(金) 16:47
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