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イチローを見出した仰木彬監督の「個性を削らない」指導力

8/17(土) 7:31配信

デイリー新潮

 前回ご紹介した横浜ベイスターズの大矢明彦監督の「変える力」に続き、今回取り上げるのは仰木彬監督の「見抜く力」である。このように言えば、誰もが「イチローのことね」とピンと来るだろう。もちろんイチローの才能を見出したことは仰木監督の偉業ではあるものの、その監督としての魅力はそれだけで語り尽くせるものでもない。ノンフィクション『指導者の条件』(黒井克行・著)から引用してみよう(以下は同書より・文中敬称略、肩書等は当時のもの)

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 選手、コーチ、監督と合わせて48年間も日本プロ野球のユニフォームを着た男がいる。西鉄、近鉄、オリックスとパ・リーグ一筋、仰木彬である。たとえば、野村克也は43年で、他に40年以上は7人しかいない。仰木が指導者に転じてから人気で劣るパ・リーグを盛り上げるのに振ったタクトは“仰木マジック”と呼ばれ、球史に残る1988年の「10.19」をはじめ数々の名勝負を作り出し、その“教え子”には野茂やイチロー、田口らメジャーリーガーが名を連ねる。

 1935年、仰木は福岡県中部を流れる遠賀川の中程に位置する中間町(現中間市)で生まれた。筑豊炭田の一角にあって、特に川沿いの住民は気性が荒く負けん気も強く、情熱も同居することから“川筋者”といわれた。そこで育った仰木自身、まさにそれを地でいった。進学した東筑高校の先輩に任侠映画のヒーロー高倉健がいたのは興味深い縁だ。

 3年の時、投手として甲子園に出場した仰木は、名将三原脩率いる西鉄ライオンズに1954年に入団。が、春のキャンプ早々、二塁手にコンバートされた。三原監督自らが握るバットから繰り出されるノックの雨にプロの洗礼を受けるが、仰木は体に当てられた球を拾うや三原の顔面をめがけて投げ返し、「さあ来い! ノッカー!」と叫んでいた。「川筋者か、骨のある奴」と三原は目を細めた。

 1年目からレギュラーに定着した仰木は中西太、豊田泰光ら野武士軍団の一員として西鉄黄金時代を築いていく。選手としては1試合6安打のパ・リーグ記録も残しているが、他に目立った活躍はない。が、三原、中西との出会いは仰木のプロ野球人生の原動力になっていた。

 1967年に現役を引退し、翌年、そのまま西鉄でコーチに就任。セ・リーグからの誘いもあったが、尊敬する三原の娘婿であり、“兄貴”と慕う中西監督の下に仕えることを迷わず選んだのである。

「自分の原点は“三原野球”」という。

 監督と選手のなれ合いを嫌い、冷徹な戦力分析と戦略・戦術に徹して合理的にゲームを組み立てる野球だ。

 1970年、仰木はその三原が近鉄の監督に就くや、守備走塁コーチに請われ随行した。ヘッドコーチを経て、都合18年ものコーチ歴を務め上げた後、監督の椅子が巡ってきた。今度は中西が打撃コーチとして仰木を支えることになった。

 監督1年目の1988年10月19日。今でも球界で語り草となっている「10.19」、西武との優勝争いの行方が最終戦までもつれ込んだ「ロッテ対近鉄」のダブルヘッダーが行なわれ、近鉄はこの2試合に勝つことが、優勝する絶対条件だった。1試合目は接戦の末勝った。2試合目も延長戦に突入する大熱戦となり、急遽、テレビで全国中継されるや視聴率は関西地区で40%を超え、関心を独り占めした。結果、引き分けで涙を呑んだが、前年最下位の近鉄のこの戦いぶりはパ・リーグへ衆目を集めることになった。“仰木マジック”の始まりであり、仰木自身、「あれが自分の監督としての原点だ。あれがあるから今の俺がある」と語っている。

 翌1989年、ライバルとなる西武はリーグ4連覇、日本一3連覇中の黄金期にあった。近鉄は前年、その王者をあと一歩のところまで追い詰めた自信はそのまま揺らぐことはなく、そこへオリックスも加わった三つ巴の優勝争いとなった。仰木率いる近鉄は2位オリックスに1厘差で9年ぶりにリーグ優勝を果たした。

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最終更新:8/17(土) 7:31
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