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カープに最初の黄金時代をもたらした古葉監督の「鍛える力」

8/17(土) 7:32配信

デイリー新潮

 プロ野球の名監督の指導者としての「力」に着目した本シリーズ、最終回で取り上げるのは広島カープの古葉竹識監督だ。最近ファンになった若者には信じられないかもしれないが、かつてカープは万年Bクラスの弱小チームだった。そんなカープを最初に躍進させたのは古葉監督である。『指導者の条件』の著者、黒井克行氏によれば、古葉監督が秀でていたのは「鍛える力」だという。

 どのような指導者だったのか。カープ女子たちも知っておくべきその偉業を紹介しよう(以下は同書より・文中敬称略、肩書等は当時のもの)。

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 スタンドがチームカラーの赤で真っ赤に染まっている。一球一打に歓声を発しながら、その赤が右に左に上へ下へと大きく揺れる。“カープ女子”と言われる若い女性ファンも加わったプロ野球広島東洋カープ(以下、カープ)の本拠地マツダスタジアムは今や広島の一つのシンボルであり、カープファンの聖地である。

 1950年に市民球団として創設されたカープは、被爆から復興へ向けた明るい話題作りの一つとしてスタートされた。だが、成績は全く振るわず、スタンドには閑古鳥も啼き始め、球団経営も思わしくなかった。そんな低迷続きの、しかも3年連続セ・リーグ最下位から迎えた翌75年、誰が予想したか、球団初のリーグ優勝に輝いたのである。この快挙はチームの赤いヘルメットに因んで「赤ヘル旋風」と呼ばれた。旋風のタクトを振ったのは39歳の青年監督古葉竹識だった。“情熱の赤”とは裏腹の、物静かで喜怒哀楽を表に出さない古葉は、一切の妥協を許さぬ采配を揮った。以後、古葉はカープを11年間でリーグ優勝を4回、日本一へも3回導いたのである。看板に掲げる機動力を活かした全員野球はその後もカープの伝統として受け継がれ、今、第2次黄金時代を迎えている。

 1936年、古葉は熊本市で7人兄弟の6番目の三男として生まれた。鋳物会社を経営する父親の下、裕福に育ち、九州有数の進学校である済々黌高に進んだが、父親が白血病で倒れ、工場も軍の需要がなくなり倒産し、一転、苦しい生活を強いられることになった。高2の時に父親を亡くしたが、少年時代から野球に秀でた古葉は春の選抜で甲子園の土も踏み、そのまま専修大学に好待遇で入学するも家庭の経済事情は如何ともし難く、1年で中退。現・飯塚市にある日鉄二瀬で野球を続けることになった。古葉はノンプロ球団の中でも厳しさで知られるここでの練習に耐え抜き、都市対抗に出場するや、プロの目に留まり58年にカープに入団。契約金は200万円で年俸は60万円。プロの同期には六大学のスター長嶋茂雄がいたが、彼の契約金は1800万円で年俸は300万円だった。

 古葉は1年目からショートでレギュラーの座を掴み、6年目にはスター街道をひた走る長嶋と首位打者争いをしたが、残り13試合で顎に死球を受け骨折しそのままシーズンを終え、僅か2厘差でタイトルを長嶋に“譲った”。

 古葉の座右の銘は「耐えて勝つ」。戦後の苦しい生活の経験が古葉にこの言葉を選ばせたのだろうが、ケガから復帰した翌年、死球の影響で打撃に精彩を欠く古葉は足の速さに活路を見出し、盗塁王に輝いた。「耐えて勝つ」の体現だ。

 70年に南海へトレードされるも、野村克也監督の下、選手で2年、コーチとして2年、野球の奥深さを学んだ。74年に守備コーチとして広島に戻ったが、カープは相変わらずBクラスが定位置だった。そもそもAクラスは球団創設以来、1度しか経験がない。この年も最下位でシーズンを終え、翌年に日本球界初の大リーグ出身のジョー・ルーツを監督に据えるも、判定を巡るトラブルをきっかけに開幕からわずか15試合で辞任し帰国した。そんなドロ沼の状態から跡を引き継いだのが古葉だった。古葉は監督最初の日記の1ページ目に、「貧しさに耐えろ。空腹に耐えろ。いつかは花咲くときがくる」と書いた。自らの体験とチーム事情を重ね合わせ、広島で骨を埋める覚悟で臨むことを誓ったのである。古葉は試合中はいつもベンチの片隅にあるバットケースの後ろから戦況をうかがった。

「指揮官はボールから決して目を離さず、何事たりとも見落としてはいけない」

 古葉が立つ位置はグラウンド内を最も隈なく見通せる場所だった。ピッチャーが投げる際にカーブ、スライダー、フォークと球種を見極めることもできた。バッターはそれにどう対応したか? 打球を追いかける野手のスタートは? ランナーの判断は? 全てを自分の目で捉え、問題点はその場ですぐに選手に指摘した。

「試合後に言っても選手は聞く耳を持たず、『わかりました』と生返事をするだけ。野球では一つのミスが命取りになるので、細部にわたる配慮が必要なんだ」

 ミスをおかしてベンチに戻ってくる選手は戦々恐々だった。古葉の横を通る時に顔色一つ変えずに蹴りが飛んでくるからだ。「赤ヘル旋風」の主力として活躍した衣笠祥雄はこう語っている。

「何が怖かったかって監督の目だ。その目は『今はこうすべきだろう、まだわからないのか』と無言の圧力をかけてきた」

 古葉の鉄拳制裁は決して一時の感情に流されるものではなかった。他の指導者とはそこが大きく異なった。79年に初の日本一になった時シーズンMVPに輝いた江夏豊が、そんな古葉に感心する。

「79年、80年の日本シリーズではいずれも連敗でスタートし、チーム全体が暗い雰囲気に包まれたが、古葉さんは一切動じる素振りを見せなかった。どんな監督も短期決戦になると選手への要求が高まり、舞い上がった采配に繋がり、思わぬミスを犯しかねないが、古葉さんは、選手のことをとことん信頼してくれていた」

 その代わりといってはなんだが、日頃の練習に対する古葉の厳しさはハンパではなかった。当時、カープの春のキャンプは巨人と同じ宮崎だったが、古葉は休養日を前にして選手たちにこう吹いた。

「巨人の練習を観に行って来い。彼らは何もやっていないぞ。いいか、ウチくらい練習をしているチームは他にはないんだ。だからいい野球ができるんだ」

 こう豪語して選手に厳しい練習を納得させたが、その最たる例が高橋慶彦だ。高橋はピッチャーとして入団したが、プロで通用しないと早々と野手に転向させられた。さらに俊足を活かしてスイッチヒッターの練習もさせられ、連続試合安打の日本記録を打ち立てるまでに成長した。その時の高橋を主砲の山本浩二は、

「あんなに練習した奴はいまだに日本球界のどこを探してもいない」

 と評する。特にコンバートされたポジションは馴染みのなかった内野の要であるショートで、古葉は「死ぬほど練習させた」という。そもそもコーチ全員がこのコンバートに大反対したが、古葉は耳を貸さず信念で高橋を鍛え上げた。

「ピッチャー出身で肩が強く、しかも足が速い素材を活かさない手はない」と。

 また、チームの将来を見据えた若手育成の必要性を感じて敢行したのである。

「お前がショートとして大成するか、俺がクビになるかのどちらかだ」

 並々ならぬ古葉の覚悟を聞かされ、「信じてついていくだけ」と高橋はひたすらバットを振り、ノックの“雨”を浴び続けた。結果、カープの機動力野球には欠かせぬ存在として3度の日本一に貢献したのである。

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最終更新:8/17(土) 7:32
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