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天皇家の血筋を守るため、暗躍した秘密組織「陸軍中野学校」とは?【戦争と日本人(4)】

8/17(土) 11:06配信

デイリー新潮

 この8月15日、日本武道館で開かれた全国戦没者追悼式で、天皇陛下は次のようにお言葉を述べられた。「戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」――。5月に御代替わりが行われ、初めての終戦記念日。しかし74年前の盛夏、その「皇統」が途絶えるとの危機感を抱え、密かに行動していた臣下の者たちがいた……。

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 敗戦の気配が色濃く漂い始めた1945年8月、昭和天皇の戦犯容疑はもはや避けられないと軍部では憂いていた。そして、皇族方に何かあった場合に備え、「皇統護持」の必要性、すなわち天皇家の「然るべき血筋」を守るべきと考える軍人たちが多くいた。そのためには皇族の身柄を匿わなければならない。陸軍、海軍の将校の間では、提案を受け「計画書」が作成されたケース、実際に命令が下されたケースまであった。

 ただし結論を先に述べれば、こうした計画群は曖昧なまますべて頓挫する。昭和天皇はポツダム宣言受諾の姿勢を示し、陸軍大臣・阿南惟幾(あなみこれちか)も「聖意」に従うとの態度をとったからである。つまりこれ以降、皇統護持作戦は、「叛乱(はんらん)」と見做されることになったのだ。しかしその中で8月15日を越えてなお、隠匿の候補地をも定め、準備していたグループがいた。彼らが担ぎ上げたのは、明治天皇の曾孫・北白川宮道久王(当時8歳、上皇の再従兄〔はとこ〕にあたる)。陸軍次官秘書官のツテを頼り、一団は道久王を隠匿する候補地、新潟・六日町(むいかまち)へと向かっていた。

〈猪俣少佐に、勤務先の兵器行政本部からトラックを1台都合させると、それに約1カ月分の食糧と毛布その他の寝具、野営用の天幕まで積みこんで六日町組は(東京の)石神井を出発したのである。途中、三国峠で道を間違え、法師温泉へ迷いこんだり、豪雨で橋が落ちて遠廻りしたので、六日町の今成拓三宅をおとずれたのは8月26日の昼であった〉(畠山清行氏著『陸軍中野学校 終戦秘史』)

 迅速かつ秘密裡。この動きも早や収束するのだが、計画を推し進めていたのが教育機関「陸軍中野学校」の出身者たち。その性格上、戦時下においては秘匿(ひとく)され、戦後も長らく明らかにされなかった秘密組織である。

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最終更新:8/26(月) 16:27
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