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終戦の日に想う――特攻に散ったドラゴンズのエース、石丸進一

8/18(日) 11:00配信

文春オンライン

 2019年8月15日、74回目の終戦記念日を迎えた。戦争と中日ドラゴンズについて考えたとき、真っ先に浮かぶ名前がある。
それが石丸進一という選手だ。

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 戦前に中日ドラゴンズの前身である名古屋軍にたった3年間だけ在籍。後半の2年間は主力投手として閃光のような活躍を見せた。戦前最後のノーヒットノーランも記録している。

 しかし、学徒出陣によって招集され、神風特攻隊に志願して1945年5月11日に零戦で出撃。そのまま二度と帰ってこなかった。まだ24歳の若さだった。

 石丸進一の生涯は幾度となく新聞や雑誌などで取り上げられ、映画化もされた。彼の名前を知っているドラゴンズファン、野球ファンも少なくないだろう。それでも僕はまだ語り継ぐべきだと思っている。

 ここでは実の甥である牛島秀彦氏によるノンフィクション『消えた春 特攻に散った投手 石丸進一』(河出文庫)を中心にして、あらためて彼の生涯を振り返ってみたい。

野球が好きで好きでたまらない「野球の虫」

 石丸進一は1922年(大正11年)、佐賀県佐賀市で理髪業を営む父・石丸金三の五男として生まれる。11人兄弟の8番目だった。金三は相場に手を出して莫大な借金を抱えていた。

 進一の野球の才能は少年の頃から抜きん出ており、その豪腕ぶりに目をつけた強豪・佐賀商業野球部から勧誘を受けて進学。厳しい練習にも全力で取り組み、野球部を引っ張っていった。家が貧しく三度の食事もままならない進一にとって、好きな野球に打ち込んでいる時間が一番幸せだったのだ。

 自分には野球しかないと思うようになった進一は、職業野球を熱望するようになる。野球で金を稼ぎ、実家の借金を返したい一心だったが、8歳上の兄の石丸藤吉がすでに職業野球の名古屋軍で活躍していたことも大きな励みだった。

 1940年(昭和15年)、名古屋軍に入団。1年目は小西得郎監督の指示によって内野を守り、史上初の兄弟選手となった藤吉と二遊間の「併殺コンビ」として話題を呼んだ。2年目からは投手に転向。スリークォーターより少し下から投げ込む剛速球と、外角低めに決まるコントロールを武器に、56試合に登板して17勝をあげてみせた。19敗したものの、なんと防御率は1.71! ちょっと名古屋軍打線、どうなってるの? この年はチーム37勝のうち、進一が17勝をあげたことになる。1943年(昭和18年)はエースとして20勝12敗、防御率1.15という堂々たる成績だった。今のドラゴンズに欲しい。

 性格は素朴だが負けん気が人一倍強く、打ち込まれたときにマウンドで繰り広げる二塁手の藤吉との兄弟ゲンカは球界名物だったと名古屋軍の野口正明は回想している。牛島氏は佐賀の人間独特の「いひゅう者」だったと表現し、頑固一徹でへそ曲がり、極端なテレ屋で自分の感情を素直に表現することができない偽悪家だったという。

 それでいて野球が好きで好きでたまらない「野球の虫」だった。「私は日本の野球界で、ずい分多くの野球愛好者を知っているが、石丸進一君位野球を好んでいた人は珍しいと思っている」と語ったのは、沢村栄治らを帯同した全日本選抜の監督などを歴任した名古屋軍の三宅大輔監督だ。遠征中でも他の選手たちが夜の街へ繰り出しているのに、進一は毎日のように宿の近所の子どもたちを集めて軟式野球に熱中し、それを三宅は微笑ましく見守っていた。

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最終更新:8/18(日) 11:00
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