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灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(65)

8/18(日) 6:00配信

新潮社 フォーサイト

 歌劇団内でプリマドンナたちとの色恋を楽しむ義江に、自宅の鎌倉山と東京を往復し主婦業と歌劇団の運営に大忙しのあき。

 そしてこの後、義江の心を虜にし、すべてを破壊する女の足音が、もうかなり近くまで忍び寄っていることにまだどちらも気づいていなかった。

 戦前からのあきの最も重要な仕事の1つに、切符の販売があった。

 華族女学校(学習院)からの上流階級との交流を中心に、一軒一軒頭を下げて切符を買ってもらう。こうして売り歩かなければ100人の観客も集まるかどうかというのがオペラの現状だった。

 ある日、学校友達の外務政務次官夫人の宅へ、前もって頼んでおいた切符を売りにいくと、対応に出て来たお女中にしばらくお待ちくださいと言われ、玄関に立っていると、電話をかけている姿も見えぬ夫人の声が聞こえて来た。

「いまね、藤原義江の奥さんが来ているんですけれど、先だって話のあった、あの例の切符ね、奥様は何枚おとりになりましたの? そう、ええ、そうなのよ。じゃ私もそうしとくわ」

 電話の相手はフランス大使をしていた某夫人。

 あきは自分が押し売りにでもなった様に感じ、屈辱で、身体の血がさあっと動くのがわかった。居ても立ってもいられず、政務次官夫人が電話機を置くと同時に玄関を飛び出ようと考えたが、

〈これくらいのことで腹を立ててしまって、オペラ役者の妻がつとまるかと言いきかせて、三枚の切符と九円の現金をとりかえて帰った〉

 と述懐している。

 あきが玄関に踏みとどまることができたのも、歌劇団と夫・義江に対する愛からとしか言いようがない。17歳で嫁に出された世間知らずのお嬢様育ちで、商いなどもちろんしたこともなく、震災後に前夫・宮下の眼科院で白キャラコの衣服に身を包み、薬を出し会計をしただけで実家から「恥ずかしいことをするな」と叱られた時代だった。

 その後、離婚、日本脱出と再婚、戦争などの体験をしながらたくましく歌劇団の運営を担っていた。

 公演日ともなれば、お弁当の手配、衣装の世話、化粧の手伝い、客席の配置、金銭出納など何もかもあきの役目であった。目の回る様な忙しさで、無我夢中の数日間を過ごしていく。

〈何しろ、指揮者も歌手も、本格のオペラは全く知らない者の集まりを、ひとり藤原が、音楽指導、演技指導、舞台装置の指示から演出までやってのけるのだから、歌の方にばかり精進してはいられない。そこへもって来て、倹約のために、少しでも、はぶけるものは、はぶきたいとしているのだから、舞台装置も衣装もまずしく、また演技もぶざまであったけれど、藤原はじめ、他の出演者の意気込み、良心的な真面目さは、スカラやメトロポリタンにも劣らぬものだった〉

 というあきの記述がある。

 あきの考えでいえば今劇団は、貧しくも清く正しく美しく運営されている。昭和の初めのまだ自分も若い頃は、綺麗なお嬢さん方が入団してくること、その歌手と夫が舞台で色恋を演ずることに、多少の疑いや嫉妬もなかったとは言えない。

 しかし戦争という大きな惨事を終え生き残った自分たちには、夢に向かって突き進むという汚れない1点の目標しかないのだとあきは思う。

 古くから在籍する三上孝子は実家のお金で欧州に留学し、本場オペラの見聞を深め、声楽教師にも付きその声を磨いたことにあきは満足していた。

 大谷冽子の『ラ・ボエーム』のミミ(女主人公)は最高だと思う。

「ミミは絶対に大谷さんよ、素晴らしいわ」

 あきは最初から大谷冽子のミミを褒めてきた。義江とて『ラ・ボエーム』は一番好きな演目であり何度も何度も上演してきたが、大谷冽子のミミには感極って歌えなくなったこともあるほどだった。

〈リチア・アルパネーゼのミミ役は、世界的どころか、トスカニーニ(イタリアの著名な指揮者)が世界一とさえ折紙をつけたほどだったが、僕は若き日、イタリアのサボーナの歌劇場で、この人と共演したが、その時も大谷洌子ほどには打たれなかった。最盛期の大谷のミミは、たしかに世界的といえよう〉

 との記述がある。

 あきの重要な仕事の1つに劇団員のオーディションもあった。

 昭和21(1946)年、帝国劇場の楽屋の一部を仕切り次々に面談をしていく。

 その若い女性が入って来たときは、瞬時に陽がさしたようで澄んだ空気が流れるのがわかった。

 砂原美智子、大正12(1923)年生まれの23歳。東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部の前身)を卒業し、教授の平原寿恵子からの紹介で藤原歌劇団のオーディションにやってきた。

 恩師からの推薦というだけあって声楽のレベルの高さは折り紙つきだったが、容姿やそのからだから出る全体の雰囲気というのも見逃せないポイントだ。

 現代的なアーモンドアイに、笑うたびにきれいにこぼれそうになる歯並び、バランスのとれたスタイル、なんといっても華がある。若いころのあきに似ていなくもない。

 満場一致で合格、入団とあいなった。

 あきの隣で鉛筆を手にし、紙に大きく花丸をつけた義江は、心地よい放心状態にひたった。若いころの情人・雪子嬢と三上孝子は涼しい顔立ちがよく似た雰囲気の女性だ。そして妻のあきと、新潟の美人佐渡おけさ衆のひとり早苗はとてもよく似ているが、砂原美智子も2人の系統だと義江はつらつら考える

「いかにうまい歌をうたおうが、男の場合女客が、女の場合男客がさわがない様ではオペラの客はふえない」

 という強い持論がある。

 その点今日やって来た砂原美智子という女性は、かなり高いレベルで義江の気持ちをも高ぶらせた。

 期待のプリマドンナ砂原美智子が入団してからは、歌劇団が若返った雰囲気に包まれるようになった。

 戦争を経てかつての若かりしプリマドンナも三十路を過ぎる中、歌と同じようなソプラノのしゃべり声や笑い声がキャンキャンと聞こえる稽古場は、さながら女学校のようだった。

 新星プリマドンナを得て、義江とあきや歌劇団の幹部たちは、これぞオペラの救世主になると期待した。

 

 昭和22(1947)年2月。藤原歌劇団旗揚げ公演の演目であり義江とあきの最も思い入れの強い『ラ・ボエーム』が、戦争を挟み4年ぶりに帝劇で上演される。

 主役のミミ役には大谷冽子と関種子が決定しており、準主役のムゼッタ役には滝田菊江ともう1人は新人から選ばれることになった。

 歌劇団の指揮者グルリット、吉田支配人、義江にあきは、強く砂原を推した。

 しかし帝劇の田村は、「いかに声が素晴らしいからと言って、無名の新人に大役をふって帝劇の舞台に出すことは困る」とゆずらない。

 しかし、歌劇団側の砂原推しがあまりにも強いため、伝統と格式を重んじる帝国劇場も遂に折れた。

 昨年の戦後第一作『椿姫』の時も歯をカタカタと震えさせながら歌ったものだが、戦後すぐのオペラを出来る喜びに興奮していた昨年よりもさらに寒さを感じる。

 ロドルフォ役の義江のセリフ「冷たいこの手、あたためましょう」は切実なセリフとなって観客に伝わる。

 砂原のオペラデビューは入団わずか1カ月にも満たない時期となったが、嬉々として役に入り観衆を惹きつけていった。

 

 女に関して百戦錬磨の義江を虜にしていく砂原美智子。関東大震災が起きた年の2月19日に、広島県は呉市で生まれた。義江とは25歳ほどの年の差がある。

 穏やかな瀬戸内海の中央に位置し、日本海軍の拠点である呉市で育った。

 子供の頃の写真を見ると、生後100日目に豪華な着物に包まれた写真や、もう少しお姉さんになった頃、妹と御囃子姿の着物をきた写真がある。頭の飾りはゆうに30センチ以上あるかと思われる立派なものだ。毎日のびのびと海に向かう緩やかな坂をかけだす元気な子供だったが、転機が起こる。

「声がいいから歌手になりなさい」と学校の教師から言われたのは7歳の時だった。よく通る声の良さは認識していたものの、教師からのお墨付きをもらったことで、一家は「音楽の勉強は東京しかない」と直ぐに東京に出てきた。

 華の都東京で一家は身を寄せ合いつましい暮らしをしながら、娘の美智子が声楽歌手になることを目標に生きてきた。

 一家が上京してからは恐慌風が吹き荒れ、戦争へと突き進んでいく暗い東京だった。

 そんな中でも声楽教師に付きレッスンに励み、みごと上野の東京音楽学校に合格した。

 憧れの音楽学校に入学したものの、運悪く太平洋戦争開戦と一緒の時期の入学でもあった。憧れの音楽学校は歌どころではなく、学徒動員のため卒業も半年早くなるという始末だった。

 歌などやっている場合ではない、しかも海の向こうの歌など国賊である。

「銃後の守り」の精神、戦争にかり出される男性たちに代わりに女性は社会的役割を求められ、勤労奉仕や女子挺身隊の労働が強いられる。また25歳以下の未婚女子は30日以内の勤労奉仕が義務化される。

 歌を半ばあきらめた。そんな状況の中で美智子や家族が選んだ人生は、結婚だった。

 戦火激しい昭和19(1944)年の春、ひと回り近く歳が上の陸軍将校の佐竹隆治と見合いをした。佐竹は外地に行くことが決まっていて、美智子は音大卒業の20日前に慌ただしく式を挙げた。

 9月10日に行われた2人の結婚式の記念写真がある。軍服を着用し帽子に白い手袋の佐竹隆治は、凛々しい目元にふっくらした下膨れの頬が若く見える。

 隣に立つ21歳の美智子は新郎と同じくらいかやや大きい背丈で、のちの舞台の砂原美智子とは違い、健康美を漂わせている。

 花嫁姿は洋装で、美智子は聖母マリアを思わせるような腰の下まであるヴェールを頭から掛け、裾が床でらせんを描くほどたっぷりと長いドレスを着用している。

 家族で夢見た美智子の声楽歌手としての舞台。その夢が戦争という形で断たれた今、親としては美智子に舞台のプリマドンナのような花嫁衣装を着せてやることが親としての最後の使命と覚悟してのことだったのかもしれない。

 外地赴任の予定だった佐竹は北海道に転属となり、2人で終戦を迎えた。

 そして終戦から2カ月後の10月には、娘を出産した。

 戦争が終わったこと、娘が生まれたこと、すべてから解き放たれたように美智子は歌をうたいたくてたまらなくなった。

 今しかない。矢もタテもたまらず、1人東京に戻り藤原歌劇団の扉を叩いた。

 そこでつかんだ初めての役、『ラ・ボエーム』のムゼッタという準主役。無我夢中であり、やっと自分の夢、家族の夢が叶い始めた。レッスンも厳しく寒さとの戦いだったが、なんてことはなかった。自分の歌に拍手を送ってくれる観客と恍惚感。自分はこのために生まれてきたのだ。

 戦争のどさくさに紛れ結婚した夫、生まれてきた娘。愛する2人のことを思うと身を割かれるような気持ちになった。あれは戦争という悪夢の中で見た幸せだったのか。(つづく)

佐野美和

最終更新:8/18(日) 6:00
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