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城をクラブ経営に導いたきっかけは、あの川淵三郎だった【GM城彰二物語】

8/19(月) 7:30配信

GOETHE

信頼する先輩であり、前任者でもあった藤川孝幸の死をきっかけに、2019年、城彰二は、突然北海道十勝スカイアースの統括ゼネラル・マネージャーに就任した。所属はまだ、社会人リーグ。スタジアムはもちろん、決まった練習場さえもない。スポンサーヘの営業、自治体との連係、クラブ運営など、すべてを行わなければいけない。北海道室蘭市で生まれ、中学1年まで過ごした城の目標。それは、北海道にJリーグクラブをゼロから作ること。連載「GM城彰二物語」、第5回。

「現場をやる前に、クラブ経営などを経験し、視野をもっと広げたほうがいい」

1993年。鹿児島実業高校3年時に、日本初のプロサッカーリーグ、Jリーグがスタート。空前のJリーグブームのなか、僕はジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉・市原)でプロデビューを果たした。

デビュー戦から、4試合連続ゴール。僕自身もその波(ブーム)に乗った。‘96年アトランタ五輪、’98年W杯フランス大会出場。横浜マリノス(現横浜Fマリノス)に移籍すると3シーズン連続で二桁ゴールをマークし、スペインのレアル・バリャドリードへレンタル移籍したのは2000年。Jリーグの契約規約が今とは違い、多額の移籍金が生じる時代でもあり、欧州での日本人選手の評価もまだまだ低い時代だった。レギュラーとしてプレーしたものの、怪我もあり、約半年後に帰国を余儀なくされた。

しかし、横浜に復帰しても、負傷を繰り返し、ストライカーとして重要なゴールという結果から遠ざかった。‘02年にヴィッセル神戸へレンタル移籍し、環境を変えたものの、評価を得られる活躍はできなかった。そして、そのシーズン終了時、神戸との契約延長は叶わず、横浜との契約も終了。僕は初めて「戦力外通告」を受けることになる。

当時の僕はまだ27歳。引退を考える年齢ではなかった。しかし、J1からのオファーはなく、J2の横浜FCへの移籍が決まった。1998年に設立された横浜FCは、翌‘99年よりJFLに参戦し、2000年からJ2で活動する歴史の浅いクラブ。当然成績も芳しいものではなく、下位争いが定位置といった状況だった。当時はまだJ3降格がなかったけれど、J1昇格を願うサポーターの想いに答えたいと思った。

Jリーグブームは徐々に陰りを見せ、30代を目前にした選手の多くが「リストラ」されるような時代。横浜FCの予算は当然J1とはくらべものにはならない。決まった練習場もなく、プレーする環境もまた劣悪だった。もちろん、給料もわずかだ。自分が立つ環境が激変したことを痛感した。

しかし、「サッカーができる」という純粋さを持ち、懸命に闘うチームメイトの姿は、僕に新しい刺激を与えてくれた。そういう集団で、3年間キャプテンを任された。いろいろな気持ちや考え方を持つ人たちを受け入れながら、団結するチーム力を実感し、僕自身が人として大きく成長するきっかけを横浜FCで与えてもらった。

そして、‘06年三浦知良さんと2トップを組み、J1昇格が決まった時点で、僕は引退を決意した。痛めた膝が限界だった。J2優勝カップを掲げられた感動は今も忘れられない。31歳だった。

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最終更新:8/19(月) 7:30
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