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話題の「二番打者」を歴史をさかのぼって考える

8/23(金) 10:24配信

週刊ベースボールONLINE

強打の二番打者のルーツは

 8月21日発売「週刊ベースボール9月2日号」では、巨人・坂本勇人、DeNA・筒香嘉智ら従来なら三、四番タイプが定着して話題になっている「二番打者」の特集をしている。

【画像】イメージ通りの二番打者?芸術的なバントを決める川相昌弘

 日本ハム・大田泰示のインタビュー、12球団だけでなく、MLBの二番事情などを掲載しているが、そもそも「強打の二番打者」というのは、近年初めて生まれたトレンドというわけではない。
 今回は、その歴史について振り返ってみたい。
 
 1936年からスタートしたプロ野球公式戦。草創期、阪神の二番打者は、のちのミスター・タイガース、藤村富美男だった。セカンド、投手の二刀流で、虎の「四番サード」でにらみを利かせた戦後に比べれば、まだ線は細い。
 ただ、37年秋にはリーグ3位の打率.317をマークし、犠打は0だ。戦前の本塁打が通算3本は物足りないが(それでも36年秋の本塁打王=2本だが)、攻撃的二番打者の先駆けとは言える。
 なお、同時期、巨人の二番は花形選手の一人、水原茂。さほど打撃はよくなかったが、いずれにせよ、二番がつなぎ役という雰囲気は戦前の2強・巨人、タイガースに限ればなかったようだ。

 戦後の1リーグ時代に猛威を振るった阪神ダイナマイト打線の二番・金田正泰は46年に首位打者(.347)を獲得し、49年には打率.302、10本塁打で犠打は3だった。
 ただし、49年のタイガースは三番・別当薫が.322、39本塁打、四番・藤村富が.332、46本塁打、五番・土井垣武が.328、16本塁打。飛ぶボールの時代でもあり、金田の2ケタ本塁打もこの年だけ。強打者というよりは、巧打者だった。

 50年代、巨人の二番打者だった千葉茂は、53年には打率.320はチーム2位、12本塁打はチーム最多タイ(飛ぶボールの後、飛ばないボールの時代だった)、80打点はチーム最多だ。四番でもおかしくなかったが、四番には6本塁打、77打点ながら打率.347で首位打者の川上哲治がいた。

 千葉は右打ちの名手で(右打者)、どんな球でも進塁打にする自信があるのに、水原監督が犠打のサインばかりを出すと嘆いていた。わざと2ストライクにしてから、3バントで決めたという逸話もある(同年19犠打)。

 球史において、強打の二番打者の元祖となると同53年の高卒新人・豊田泰光となる。これは実績に加え、三原脩監督の「流線型打線」のインパクトから来る。
 守備に難がありながら、三原監督から正遊撃手に抜てきされた豊田は、強打を買われ、途中から五番にも入り、9月後半から二番に回って、トータル27本塁打をマークした。
 根底にあったのが、三原の出塁率の高い一番の後、二番に強打者を置き、得点力をアップさせるという流線型打線だった、といいうわけだ。豊田の二番は57年あたりまで続く。

 ただし、あくまで西鉄打線の軸は三番の中西太。ある意味、四番からレジェンド・大下弘を外せないがゆえでもあったかもしれない(理論自体は以前から発表していたが、三原が巨人監督時代もはっきりと具現化はしていない)。

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最終更新:8/29(木) 19:27
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