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幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味

8/23(金) 6:00配信

JBpress

 (柳原三佳・ノンフィクション作家)

 今年の夏も猛暑日続きでした。ここ数年で夏期の最高気温はどんどん上昇し、今年は新潟県中条の40.7度をはじめとして、日本海側で40度を超える高温を記録した地域が多数出ています。

パナマからアスペンウォールに至る蒸気機関車への移動中、沿線住民は熱狂して手を振っていた

 私が子どもの頃の夏休み(昭和の時代です)は、たまに30度を超えただけでも「すご~い!」と驚いていた記憶があるので、昭和、平成、令和と時を重ねる中で、いかに地球温暖化が進んでいるかがよくわかります。

■ 江戸時代は小氷期で涼しかった

 では、「開成をつくった男」佐野鼎(さのかなえ)が青年期を過ごした幕末の気候はどうだったのでしょうか? 

 当時の日本には、現在の気象庁のように公式に気温を計測する機関がなかったので、残念ながら詳細なデータは残ってないのですが、文献をいろいろひも解いてみたところ、江戸時代は小氷期にあたり、今とは違って夏でもかなり涼しかったようです。

 佐野鼎が「万延元年遣米使節」の一員としてアメリカへ渡った1860年は、ちょうど小氷期が終了する時期にあたり、夏には一時的に高温になる日もありました。それでも最高気温が30度を超えることはほとんどなかったようです。

 そんな過ごしやすい時代に生きていたサムライたちにとって、初めての海外渡航で体験した赤道付近の暑さは、やはりかなり過酷なものだったようです。

■ 幕末に赤道付近の気温を計測していた佐野鼎

 実は、佐野鼎はアメリカ行きの航海の途中、寒暖計を使って気温を計測し、それを『訪米日記』に詳細に書き記していました。その中に、「華氏95度」、つまり、現在の気温で35度を超える暑さを記録した一節が残されています。

 使節団一行が江戸を出港してから78日目、いったんパナマ港で船を降り、生まれて初めての蒸気機関車に乗って、中米のパナマ地峡を太平洋側から大西洋側へと横断する際の記述です。

 ちなみに1860年当時、「パナマ運河」はまだありませんでした(運河が完成したのは1914年)。彼らは全長84マイル(約77キロ)の道のりを「パナマ地峡鉄道」と呼ばれる鉄道で移動したのです。

 「閏(*うるう)三月六日 西洋四月二十五日に当たる・・・」

 という一文から始まるその日の日記には、生まれて初めて体験する酷暑の中、吹き出す汗をぬぐいながら「サン・パブロ」という駅で途中下車したときのことが綴られていました。

 「此の所は鐵路の中間にて、小休息の場所なり。ここに暫時車を止む。
此の間各車より下りて、両便(*大便や小便)等通ず。最も車中にも厠はこれあり」

 つまり、今でいう「トイレ休憩」をしたようですね。

 汽車の中にもトイレは設置されているけれど、当然、車内にクーラーなどあるわけはなく、途中で休憩しなければ、熱中症で倒れてしまう危険があったのでしょう。

■ 酷暑の中、氷入りの葡萄酒に感激

 日記はさらにこう続きます。

 「ここにて寒暖計を検するに九十五度(*摂氏35.5度)許なり。然るに此のところに氷あり。これは合衆国北部の山より得て、船にて諸方に輸送するといふ。この氷をフランス國製の葡萄酒に加へて飲めば、甚だ清涼を覚え、且つ渇を止む。熱候には甚だ良剤なり」

 佐野鼎たちはなんと、氷入りのフランスワインでのどを潤していたというのです。

 35度を超す酷暑の中、からからに乾いた喉に、冷たく冷えたワイン・・・、さぞかし生き返った思いがしたことでしょう。

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最終更新:9/5(木) 23:20
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