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張本勲「通算3085安打の後悔」/プロ野球20世紀の男たち

8/24(土) 11:05配信

週刊ベースボールONLINE

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

【画像】張本勲がとった野村克也の“ささやき戦術”撃退法とは?

暴れん坊どもが夢の跡……

 現在は東京の閑静な住宅街にたたずむ駒沢オリンピック公園。そこに、10年にも満たない短い期間ながら、プロ野球が開催される野球場があった。当時は畑のド真ん中。内野スタンドも土盛りで、風が吹けば砂塵が舞った。駒沢球場。そこは、“暴れん坊”たちの棲家だった。

 彼らの名は東映フライヤーズ。駒沢球場では球宴が開催されたこともなく、東映の優勝を見ることもなく役割を終えたが、そんな“暴れん坊”たちの中心にいたのが張本勲だ。今は東映という球団もフライヤーズという愛称も残っていないが、今でもテレビで元気な姿を見せるレジェンドが、無数のハンディキャップと戦いながら、通算3085安打を積み上げた若き日の姿があった。

 広島県の出身。父親が早くに亡くなり、貧困の中、母親に女手ひとつで育てられた。少年期から負けん気と腕っぷしが強く、ガキ大将。そして野球もうまかった。県下の強豪校からは“武勇伝”で門前払い。転校した大阪の浪商高では暴力沙汰の濡れ衣を着せられ、甲子園への道が閉ざされた。2年生の夏にプロへ誘ってくれた水原円裕監督が率いる巨人への入団を希望し、あらためて水原も誘ってくれたものの、水原が球団と対立していたこともあり、かなわず。中日も熱心で契約金も多かったというが、「花の東京で勝負したい」(張本)と、1959年に駒沢球場を本拠地とする東映へ。

 そして恩師の松木謙治郎コーチと出会う。現役時代は勇猛果敢な強打者で、タイガースの監督も経験した名伯楽。松木は4歳のときの火傷でハンディが残っていた右手の力が弱いことを見抜くと、「強いライナーを打ち返す中距離打者」(松木)へと導いていく。開幕から先発出場を果たすと、6月からは四番にも座り、そのまま新人王に。水原監督となった61年には初の首位打者に輝いた。駒沢球場ラストイヤーでもあったが、東映はV逸。首位打者の歓喜よりも悔しさが上回った。

 東映の初優勝、日本一は翌62年。MVPに選ばれた22歳の若者は天狗になった。その鼻が折られたのが翌63年の球宴。同い年でもある巨人の王貞治が打撃練習をしているのを見て、震え上がった。同じ左打者ながら、スイングも、打球のスピードも違う。同期のプロ入りで、芽が出るのに時間を要した王の上に自分がいると思っていたが、自分が止まっている間に王が積み重ねたものを目の当たりにして、言葉を失った。そこから低迷。首位打者に返り咲いたのは67年だった。

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最終更新:8/24(土) 12:10
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