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稲尾和久「神様や仏様と並び称された鉄腕が投げまくった理由」/プロ野球20世紀の男たち

8/25(日) 11:05配信

週刊ベースボールONLINE

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

【画像】“神様・稲尾”が嫉妬した男 畑隆幸

鉄腕の潜在能力

「完投した翌日、(三原脩監督に)ベンチで見ているように言われて、ピンチになると近くに寄ってきて『ブルペンの投手がまだできていない』とかブツブツ言う。私も尻がムズムズしてきてブルペンへ行ってしまう。そうなると観客も沸く。いい場面が来たら三原さんが『行けるか』って。こうなれば気持ちも乗ってくるし、大丈夫です、って言うしかないでしょ(笑)」

 生前、こう振り返ったのが、1950年代の後半から60年代の前半、特に56年からのV3における最大の功労者となった西鉄の稲尾和久だ。

「使ってくれてありがとう。給料が上がります」

 とも思っていたという。21世紀、九州は福岡でダイエー、そしてソフトバンクが黄金時代を謳歌しているが、その半世紀ほど前、その福岡に黄金時代を築いていた西鉄の、遠い記憶だ。

 三原監督に“乗せられて”投げまくったのはプロ1年目の56年からだったが、春の島原キャンプでは打撃投手のような扱いだった。ここで開き直って、打撃練習を実戦と位置づけると、打者との駆け引きや制球力に磨きをかけていく。スピードも見違えるように速くなった。初めて三原監督の目に留まったのはオープン戦。その後も、どんな場面で投げろと言われても結果を出した。二軍戦でも、フリー打撃でも、きっちりと与えられた仕事をこなす。三原監督は徐々に、この若武者の潜在能力に惹かれていった。

 大分県は別府港の近くで生まれた。7人きょうだいの末っ子だったが、5人の兄は戦死したり、ほかの仕事を選んだりと、腕利きの漁師だった父の跡を継いでいなかった。少年時代は父が釣っている間に小伝馬船の櫓を漕いだ。父が釣った魚は母が近くの旅館へ刺身にして卸し、頭や中骨のまわりを煮たものを食べた。残った骨は乾燥させて、ふりかけに。これが鉄腕の礎となった。

 野球を始めたのは小学校の高学年。船が沖へ出て時間が空くと、持ち込んだ小石を遠くに投げた。中学時代から野球部に。別府緑丘高では2年生の夏からエースで四番打者となり、南海が獲得に動くと、急に西鉄が熱心に誘ってきた。九州の人材を南海に出し抜かれたくないと本気になったらしい。反対した父も最後は「大阪はワシの船では行けん。福岡なら、いつでも行けるワイ」。西鉄への入団が決まった。だが、

「虫の居所が悪ければ、大したことないね、無理に取ることないよ、と言っていたかもしれない。打撃投手として使える、まあ投手はいくらいてもいいか。それくらいの軽い気持ちだった」

 のちに三原監督は振り返っている。

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最終更新:8/25(日) 11:05
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