ここから本文です

【戦国武将に学ぶ】真田信繁~敵からも認められた「日本一の兵」~

8/25(日) 8:10配信

オトナンサー

「真田信繁って誰?」といわれそうですが、あの「真田幸村」のことです。「幸村」という名前は、江戸時代のはじめに書かれた「難波戦記」という軍記物に登場し、それが広く知られるようになりましたが、本人は亡くなるまで信繁と署名しています。

【写真】真田信繁ゆかりの「上田」「大坂」

 信繁は、信濃(現在の長野県)の国人領主・真田昌幸の次男として1567(永禄10)年に生まれました。兄は信幸(後の信之)で、関ケ原の戦いのとき、兄弟が東西に分かれたことはよく知られています。

逆境の中で軍法学ぶ

 信繁のすごいところは、逆境をむしろ逆手に取った生き方をした点です。父・昌幸が生き残りをかけ、有力大名たちの間であっちに付いたり、こっちに付いたりしたわけですが、信繁はその都度、人質に出されています。上杉景勝に付いたときは上杉家の人質となり、豊臣秀吉に付いたときは豊臣家の人質に出されています。

 上杉家の人質になっていたときには、上杉家の軍法を学んでいます。人質に軍法を教える家はありませんので、正確には「盗んだ」といってよいでしょう。豊臣家の人質となったときも同じです。昌幸は武田信玄・勝頼父子の重臣でしたから、父から武田家の軍法も受け継いだ信繁は、武田・上杉・豊臣という3大名の軍法を身に付けたことになります。これは、当時としてもめったにあることではありません。このことが、上田城の戦いや大坂冬の陣・夏の陣で生きてくるのです。

 上田城の戦いは2度ありました。1度目が1585(天正13)年うるう8月で「第1次上田合戦」と呼んでいますが、この戦いに信繁が加わっていたかどうかは分かりません。「第2次上田合戦」が1600(慶長5)年9月で、このとき、信繁は昌幸とともに出陣。徳川秀忠の3万8000の大軍を上田城にくぎ付けにし、秀忠が関ケ原の戦いに間に合わないという事態をもたらしたことで知られています。

 しかし、周知のように、関ケ原の戦いは東軍・徳川家康方の勝利で終わります。家康は昌幸・信繁父子を処刑しようとしますが、東軍に付いていた兄・信幸の助命嘆願によって死は免れ、高野山麓の九度山(くどやま)に流されることになりました。

1/2ページ

最終更新:8/25(日) 16:10
オトナンサー

記事提供社からのご案内(外部サイト)

オトナンサー

株式会社メディア・ヴァーグ

「ライフ」「漫画」「エンタメ」の3カテゴリーで、暮らしに話題と気づきをお届け!

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事