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にっぽんピンク映画全史。性表現を通した政治的メッセージの変遷

8/25(日) 15:31配信

HARBOR BUSINESS Online

若松孝二、武智鉄二の登場と大映・日活の路線変更

 「ピンク映画界の黒澤明」とも呼ばれる若松孝二監督は、1963年に「甘い罠」でデビューし、1965年の「壁の中の秘事」(若松プロダクション)はその年のベルリン国際映画祭にその他の大手5社の映画を差し置いて出展され「国辱」と罵られた。

 しかし、その内容は当時の社会問題(ベトナム戦争、60年代安保、原爆後遺症、スターリニズム・・)といった様々な問題が団地という閉塞的な、とても日常的なエコロジーの中で反映される、というものである。

 この「国辱発言」は当時の日本社会が(もしかしたら今も)、性表現を猥褻としてしか認識できないことを物語っている。人間を描く芸術に、性的なものは必然だ。なぜなら、性は人間の(動物や植物にとっても)重要なファクターであるからだ。

 同じように、1965年に発表された武智鉄二監督の「黒い雪」(日活)は横須賀の米軍基地の隣にある米軍向けの売春宿を舞台とし、猥褻物として起訴された。これは日活という大手5社の1つが一般映画として性表現が多い映画を製作・公開した事が所以とされる。

 しかし、武智監督はこれを「反米映画の民主的な映画」と主張し、第二審で無罪を獲得した。武智監督が「これが今の日本の象徴だ」と語った、全裸の女性が米軍基地の横を逃げ回り、その上を米軍の飛行機が飛び去るというシーンは圧巻だ。

 確かに、ピンク映画の中には娯楽重視で芸術性に欠けるものもあるかもしれない。しかし、それは一般映画でもありうる話である。さらに言うと、ピンク映画の功績があってこそ現在の表現の幅があるのかもしれない。

 様々なファクターが考えられるとは思うが、前述した通り、1960年代後半にはピンク映画の勢いは大手5社を脅かすようになっていた。最初はヤクザものや時代劇で知られる東映がピンク映画の真似事をし、1967年に「大奥㊙︎物語」(中島貞夫監督)を製作し、ヒットした。

 しかし、東映所属の女優はあまり脱いでくれなかった為、当時の岡田茂プロデューサーはピンク映画経験者を積極的に登用し、翌年1968年に「徳川女系図」を発表。俗に言う「東映ポルノ」の始まりである。その後東映は拷問・処刑、グロテスクな独自路線でエログロをエスカレートさせていった。

 当時日活も試験的に「女浮世風呂」(1968年 井田探監督)を発表した。これは後の日活ロマンポルノへの布石である。

 大手5社の中で、東映・東宝・松竹は大映・日活に比べて比較的規模が大きかった。いくらエログロものを作っているとはいえ、東映の専門は時代劇とヤクザ映画であったし、東宝は「ゴジラ」に代表されるような特撮でピンク映画は一切作らず、健全なイメージを保っていた。また、松竹は歌舞伎の興行を独占していたので、経営難にはさして至らなかった。その中で大映と日活はピンク映画の影響を直に受け、ダイニチ映配という会社を設立したが、それも長くは続かなかった。1971年に大映は倒産。

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最終更新:8/25(日) 15:31
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